2010年03月29日

すべての消費活動はステータスである

子供が欲しいと思っても、なぜか産めないでいる女性がいる。妊娠した女性と、今後も産まないであろう女性。同じように子供を欲しいと願っているにも関わらず、両者の差はいったいどこから来るのだろう。
その理由のひとつに挙げられるのが家庭の経済力である。経済成長が永遠に続くと思われていた時代ならば、安心して妊娠することが出来たものだが、一寸先は闇、現在のような不況暗黒時代に子供を産むことは、一か八かの賭け、博打みたいなものなのだ。
勝間和代みたいに自分自身の経済力が安定する…、それが一番の理想ではあるのだけれど、やっぱり女性が将来にわたって安心して子育てをするには、養ってくれる「エリート男子」の確保が最優先事項だ。

そんなわけで、恋愛市場において女性は常にお金持ちの男性を探している。ところが、この「お金持ちの男性」というのが、とっても見分け難いものなのだ。なにしろ男性らに「俺はお金持ちです。」という名札がついているわけでもなく、ましてや「預金残高はいくらですか?」なんて失礼な質問をするわけにもいかない。しかも、最近の男性はみんな見栄っ張りで、みんなお金持ちのフリをするため、誰が本当のお金持ちか、女性の側からするとさっぱり分からない。
トヨタのクラウンに乗っている男性、ロレックスの高級腕時計を身につけている男性、誕生日にブランドもののバッグをプレゼントしてくれる男性。一見すると、彼らはお金に余裕のある男性のように見えるけれど、実は住まいが「おんぼろアパート」で、女性を満足させるがために、借金をしてでも、必死に見栄をはり続けている貧乏サラリーマンであるかもしれない。
ちょっとアンタ!アタシはアンタのことを金持ちだと思って付き合っていたんだからね!それなのに何よこの狭くて汚い部屋は。しかも、実は借金してましたですって? ふざけんのもいい加減にして。アンタみたいな詐欺師にはもうウンザリ、別れましょ!
…とまあ、こんな具合に肉食系女帝の手によって偽りの金持ち男性は淘汰されていく。あなたが彼女に贈ったブランド品も、今ではyahooオークションに出品されているかもしれないから、検索してみるのもいい暇つぶしになるだろう。

ところで、僕は以前から「ブランド」というものに対して懐疑的だった。たとえば、シャネルというブランドもののバッグがある。種類にもよるけれど、購入するとしたら日本円にして最低十万円は固い。かたや、安物の中国製バッグがある。もちろん無名ブランド、日本円にして数千円もあれば購入可能だ。
両者の歴然たる価格差はいったいどこからくるというのだろう。確かに有名ブランドのバッグというのは機能性に富み(僕は持ったことはないけれど)あるいは使いやすいのかもしれない。にもかかわらず、僕には両者に(機能性、素材、工賃などを換算して)ほとんど十万円もの差があるとは到底思えない。
実は、彼女達が買っているのはシャネルのバッグそのものではない。彼女達が買っているのは、シャネルのバッグを持っているセレブなアタシという目に見えないイメージなのだ。

ジャン・ボードリヤールという哲学者はこれを「記号消費」と名づけた。現在の消費社会においては、バッグや自動車といった商品が持っている機能的価値とは別に、それらの商品が持っているブランド=イメージの方が重視されている。バッグとはただ単に小物を入れて運ぶだけの商品に過ぎないが、シャネルのバッグ所有者には常に「高級ブランドを持っているセレブな女性」というイメージが纏わりつく。
さらに、ボードリヤールはこれをブランドものの商品のみならず、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品にまで及ぶとした。消費社会においては、モノはモノそれ自体の有用性としてではなく、イメージとして消費される。洗濯機が三種の神器などと呼ばれた時代においては、洗濯機は洗濯という機能だけでなく、それを所有しているというステータス(社会的地位)のゆえに消費されたのだ。

そのおびただしい数、そのさまざまな形態、流行の作用、さらにはその純然たる機能を超えたあらゆる性質によって、モノは今なおひたすら社会的価値(地位)を装おう。地位、それはある種の人々にとっては生まれによってしか与えられない宿命の恩寵であり、大多数の人々にとっては、その逆の定めによって決して辿り着けないものである。
…あらゆる渇望の根底には、生まれながらの地位、恩寵と優越をもたらす地位という理想の目標が存在しており、この目標はモノのまわりにもつきまとっている。装飾品やガジェットなどのフェティッシュに熱中する世間やこの種の妄想を生じさせるものもやはり地位の観念なのだ。<消費社会の神話と構造:ジャン・ボードリヤール:今村仁司訳>


そんなわけで、恋愛市場において我々男性が金持ち役を演じるためには、これからも過剰消費をし続けていかねばならない。もはやそれは高級外車や腕時計だけの話にはとどまらず、「毎晩高級レストランで外食。」「1ヶ月に1回は海外旅行でリゾート気分。」といった、あらゆる消費活動が彼にとってのステータスになっていくのだ。


posted by もときち at 14:26 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月24日

ヒトラーの手法


わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) [文庫] / アドルフ・ヒトラー (著); 平野 一郎, 将積 茂 (翻訳); 角川書店 (刊)1885年にアロイス・ヒトラーは三度目の妻クララ・ペルツルを迎え、2人の間にアドルフ・ヒトラーが誕生。幼少時のアドルフは、クララによく似ていると言われ、深い愛情を持って何不自由なく育っていきました。

しかし、ヒトラーの学生生活は落第続きでした。
ウィーンの美術学校に不合格。当時の彼は肌が青白く、ひどく痩せこけて、病的な面持ちの少年だったといいます。ヒトラーが政治活動に参加するのは、それから10年後、第一次世界大戦の頃からです。


さて、前回の記事でナチズムのことが出たので、ナチズム関連でヒトラーの『マイン・カンプ(わが闘争)』という著書を紹介します。本書の内容は事実に反する虚飾にまみれており、しかしながらヒトラーの幼稚を映し出す鏡として、現在も貴重な資料として扱われています。もちろん「わが闘争」の最も大きなテーマは政治とユダヤ人排撃です。
本書はナチス時代にはたいそう読まれていたそうで、ドイツではある種のバイブルみたいな存在だったのですが、驚くべきは、本書にヒトラーの“やり口”が惜しげもなく披露されていることです。曰く、決起集会などは夕方以降にやったほうがいい、夜になると人間は昼間に持っている理性や秩序がなくなって、非常に動かしやすいからだ…などなど。
確かに、我々人間は夜間になると開放的になるというか、ちょっとハメを外してしまうようなところがありますね。ヒトラーはこのような人間の習性を熟知していたのですが、普通はそういうことを知っていても黙ってこっそりと実践するものです。しかし、彼は敢えて読者にそれをさらけ出す。このようにヒトラーの手法がほとんど書かれている本が広く読まれていたわけだから、大衆がヒトラーに騙されていたとは一概には言えないはずです。だって、大衆はヒトラーの詐術をわかっているうえで、彼を支持しているのだから。

こういった手法はマキャベリの『君主論』なんかにもよく出てきます。ようするに、自分の手の内を全部さらけ出す事によって、逆に相手を信用させてしまおうということです。自分は貴方達を騙していますよ、利用しますよ…と、あらかじめ宣言することにより、かえって彼は「誠実」とみなされ、他者からの信用を勝ち取ってしまう。
露悪主義なども同様。「自分は悪いヤツだ」ということを必死に宣伝する人がいますね。
もちろん、ただ単に悪役のほうがカッコいいというのもあるけれど、それ以上に彼らは「偽善」に対する憎しみが非常に深い。みんな建前で「善人のフリ」をしているけれど、本当は自分のことしか考えてない。連中は偽善者だ。だから、俺は悪人になる。そうすることで露悪主義は逆に信用を勝ち取ろうという詐術を利用しているのです。
夏目漱石の『三四郎』に、現在の日本人は偽善を嫌うあまり露悪に向かっているという指摘があります。
日本では 「本音で言って何が悪い? 心にもない善行をすることより正直であるほうが大事なんだ。」という気分がとても強い。しかし、露悪主義というのは、善を目指すことをやめた姿を皆で共有して安心してしまってる、ある意味でグロテスクな集団です。

posted by もときち at 16:23 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月22日

流行のニーチェ

 
道徳の系譜 (岩波文庫) [文庫] / ニーチェ (著); Friedrich Nietzsche (原著); 木場 深定 (翻訳); 岩波書店 (刊)書店で『超訳 ニーチェの言葉』という本がベストセラーになっているようです。僕は本書を読んでいないのでなんとも言えませんが、確かにニーチェ独特のアフォリズムって、カッコよくて、我々を惹きつけるものがあります。(アフォリズムというのは「箴言」とか訳されていて、短い文章の中に鋭い指摘を含んだような表現のことをいいます。)
ニーチェの著書で広く読まれているのは「道徳の系譜」ですね。人間の「良さ」とは何か?いや、そもそも「良い」人間とは、どういうものなのか。「良い」人生とはどういうものなのか。「良い」行いとはどういうものなのか。本書にはニーチェの「善悪」についての考え方が記されています。


「良い」という判断は、「良いこと」を示される人々の側から生じるものではないのだ!却って「良い」のは「良い人間」自身であった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位な人々、高邁な人々が、自分たち自身、および自分達の行為を「良い」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑しいもの、賤民的なものに対置したのだ。<道徳の系譜:ニーチェ>


そもそも「良い」という言葉は利己的な判断であったのです。力が強い、身分が高い、権力があるといった「強者」が自身に対して使う言葉だった。しかし、それを弱者の立場であったユダヤ人が、高貴なローマ人に復讐するために価値転倒を行ってしまい、今では「自らをかえりみず、他人のために何かしてあげること」が「良いこと」になってしまったというわけです。
これをニーチェは、弱者であるユダヤ人達が、現実の権力を持つ貴族階級、ローマ人に対する卑屈な恨み=ルサンチマンによるものだと言います。たとえばキリスト教は「貧しい者こそ幸いである」と説きますが、これは富や権力などを目指す人生よりも、もっと人間として大事な生き方があるだろうということを言っているのです。しかし、実際には全ての人間が貧富の差がなく、むしろ裕福であった方が良いですよね。キリスト教はこの価値観を大胆に転換してしまった。なぜ、このような価値転換が起こるのかというと、弱者の価値は、常に強者の価値の反動として生じるからなのです。

あのユダヤ人達こそは、おそるべき整合性を持って貴族的価値方程式に対する転倒を敢行し、最も深刻な憎悪の歯軋りをしながら、この転倒を固持したのだ。曰く「惨めなるものが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ幸福はある。」 …諸君は誰がこのユダヤ人的価値転倒の遺産を作ったのか知っている。<同>


ユダヤ人に対する攻撃的な言辞という意味で、ニーチェをナチズムと結び付けて考える人も多くいますね。たとえば、ヒトラーはニーチェ哲学の実践者であるとも言われているのです。たしかに、ニーチェの著作にはヒトラーと正反対の思想傾向も見受けられますが、それでも、彼が「ヒトラー的なもの」から完全に逃れている崇高な哲学者だという見解には無理があるでしょう。

posted by もときち at 11:52 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月18日

ツイッター入門

Though it is a little too late :)
話題の『ツイッター』を始めてみました。

Twitterとは、140文字以内の短い発言(つぶやき)を入力して、みんなで共有するサービスです。何かに気づいた時や思いついた時、友人に自分がいまどこにいるか、何をしているか知らせたい時にさっと書き込むことができます。これだけでは単に独り言をつぶやくだけのサービスですが、Twitterには「フォロー」という他のユーザーを友達のように登録する機能があります。お店のタイムセールや時間限定イベントなどのお得な情報をくれるものなど、自分の友達だけではなく様々な情報がそのアカウントをフォローするだけでどんどん飛び込んできます。<公式サイトより抜粋>


フォロワー(自分の発言をフォローしてくれる人)の数が多ければ、新たな検索ツールにもなりえるサービスみたいだ。たとえばフォロワーがたくさんいる状態で「いま吉祥寺のあたりにいるんだけど、美味しい店しらない?」と書くと何人もの人から返事がもらえるので、生身の人間がリアルタイムで答えてくれる検索エンジン的な活用が出来るのだ。また、ニュース速報(たとえば地震警報)よりもツイッターの情報伝達速度のほうが早いので、海外ではツイッターを利用した速報システムまであるらしい。

とはいえ、これはフォロワーがたくさんいて初めて成立する話。
有名人ならほうっておいても被フォロー数は増えていくけれど、僕達一般人はそうはいかないので、自分の被フォロー数を増やすときは 「#followme」 というタグを使って募集告知したりする。 なんだかホームページの相互リンクみたいなシステムである。(相互フォローなんていう呼び名もある)
普通に生活していたら話す機会が持てないような著名人に 「@+ID」 で気軽に話しかけることが出来るのもツイッターの良い点。しかも、僕達一般人からの質問に(ホント大変そうだけど)マメに返答してくれる政治家・著名人が結構多かったりするのだ。(掲示板やチャットとは違うから、著名人ツイッターがブログのコメント欄のように“荒らされる”心配もあまりない)



…しかしあれだな。
この人の発言をフォローしたい!という著名人があまりいない (ボソッ)
 

posted by もときち at 12:10 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月28日

コード化=超コード化=脱コード化


構造と力―記号論を超えて [単行本] / 浅田 彰 (著); 勁草書房 (刊)
僕が生まれた時代、1980年代初頭に「ニューアカデミズム」という一大ムーブメントがあった。1983年当時、京都大学の助手であった浅田彰が著したポスト構造主義に関する専門書『構造と力』が、哲学書としては異例のベストセラーとなり、彼の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて「ニューアカデミズム」と名付けたのである。
『構造と力』では、フーコーやラカン、レヴィ=ストロースといった難解な現代思想が、まるでチャート式参考書のように、これ以上ないくらいにわかりやすく解説されている。本書のクライマックスは、なんといってもドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から抽出した“コード化”のくだりだろう。


言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇としてとらえねばならない。それは、錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである。
…さて、文化が多少とも安定した構造として存立するためには、この垂直の力が社会全体に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することが出来るだろう。以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、 (1) コード化−原始共同体、(2) 超コード化−古代専制国家、(3) 脱コード化−近代資本制の三段階の定式化を行うことにする。<構造と力:浅田彰>


我々人間の欲動が制御され、そこに諸々の文化が形成されていく過程には「コード化、超コード化、脱コード化」という3つの段階がある。
たとえば、動物は本能によってあらかじめ欲望の方向性がどこに向かうべきかを決定づけられているが、人間は違う。人間は自己のエネルギーをどこに向ければよいのかわからない状態で生まれてくる。
これは、ドゥルーズ=ガタリの欲望史観に大きな影響を与えたラカンの考え方だが、このような拡散する人間の欲動を一定方向に導くこと、それが「コード化」である。


万古の昔から所定のルール通りに器械的な回転を続ける一般交換の円環。これこそレヴィ・ストロースの言う冷たい社会を支えるメカニズムである。我々は、しかし、モースにあってレヴィ=ストロースが無視している側面に注目したい。それは微視的なダイナミックスの分析とも言うべき側面である。
モースは、贈物には特殊な力が宿っていて受贈者に返礼を強いるのだという思考形式をとり出し、何度も問題にしている。実際、はじめから閉じた円環をふかんするのではなく、あくまでも一方的な行為としてのひとつの贈与に注目してみよう。すると、この贈与が受贈者をいわば債務者の地位に落とすことがわかる。
…このようにして力は社会の全表面に拡がり、ひとりひとりにルール通りの行動を課していく。本能による規制を失ってありとあらゆる方向へ走り出そうとしていた欲望の流れに対して、コード化が行われるのである。<同>


しかし、歴史上において次に「専制君主機械」と呼ばれるシステムが登場する。
専制君主機械は古代国家、すなわち原始共同体に根付いたコードを一挙に取り払い、一切の剰余価値は「王」に帰属し、次に「民」に贈与されるものだという図式を作り上げる。つまり、民は王に対して永遠の負債を負うことになるわけだ。これが「超コード化」、すなわち「王」を頂点とする秩序によって社会の安定が保たれるシステムである。


重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制するというこの新しい体制のメカニズムを「超コード化」と呼ぶことが出来るだろう。さて、このメカニズムはあの力をどのように作動させているのだろうか。ここで我々は、各人が絶対的債権者としての王に対して無限の負債を負うという構図を見出すことができる。今や、王こそがはるか高みからピラミッド全体を吊り支えてくれる原点となり、終には各人の存在そのものが王の賜物であるとされるにいたるからである。何としても埋めようのないこの負債がシステム全体を金縛りにして安定させる。これこそ超コード化のメカニズムの働きである。<同>


そして今、我々が生きる近代資本制の社会は「脱コード化」と呼ばれる時代にある。ここでは既に古代専制国家の「王」のような絶対的債権者は存在しない。では、この脱コード化の社会において秩序を生み出すのはいったい何者であるのか? それは「貨幣」である。
超コード化の社会はピラミッドの頂点に「王」が君臨し、円錐型の秩序を形成していた。一方、脱コード化の社会においてはピラミッドの頂点に君臨するのは「貨幣」ではない。貨幣は「頂点」と「世俗」の間をぐるぐると、めまぐるしく回転運動を続ける存在である。


貨幣はたえず再投下されて商品に化身し、売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり、神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字通り死に金にすぎないのである。
…注目すべきは、こうした運動への誘導が、超越的・絶対的な中心の媒介によってではなく、あくまでも内在的・相対的な形で行われるということだ。各人は自分に先行する者のうち手近なひとりを媒介として選ぶことが出来る。それをモデルかつ障害物として追いつき追いこそうとすることが、彼を自然に競争過程へと導いていく。そして、媒介を追いこしてしまえば、今度は自分が媒介とされる番というわけだ。<同>


もちろん「手近な媒介」というのは、生まれた子供が最初に追いこそうとすべき存在、すなわち「父親」である。親の役割は、脱コード化の社会における競争過程への第一の誘導装置なのだ。しかし、若者はいずれ親を追いこし、新たなる媒介を発見する。そしてまた彼は際限なき競争に駆り立てられるだろう。一流大学に入り、一流企業に入り、課長になれば次は部長に、部長になれば次は取締役に…。回転する回し車のなかで走り続けるネズミのように、もっと多くの貨幣を、もっと高い理想を追い求めようとするのだけれど、どんなに多くのものを手に入れても我々の欲望が満たされることはない。それが現代人の姿である。

posted by もときち at 10:29 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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