2009年05月07日

限定された空間の偏見

僕は昨日「これはAだ」という発言をした。しかし、今日になって僕は「これはBだ」と訂正をした。
…さて、あなたはどちらを僕の発言とすべきだろう?
実は、どちらも僕の発言ではない。なぜなら明日になれば僕は「やはりこれはCだ」と発言して、過去の2つの発言は「否定されたもの」として排除されてしまうからだ。昨日の僕、今日の僕、明日の僕、つまり「僕達」であり、僕が何か発言するときは常に「僕以外の僕」という他者とともに発言している。
そこで「あなたが最後にした発言こそがあなたの発言ですよ」というのなら、上記の例からも分かるとおり、僕の最後の発言は“まだされていない”のであり、このように、時間的に新しいものが古いもの全てを支配するという考えは、弁証法的な物事の捉え方で、その対極に位置するのが「構造主義」の思想である。
 
哲学史という地平に後戻り出来ない断層を刻み込んだ構造主義の思想。構造主義を一般的に広めたとされる人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、歴史を持たない多くの民族集団(未開人)と我々(文明人)を対比させ、人類はみな固有の歴史的状況に投げ込まれていると主張した。
レヴィ=ストロースの仕事は、人間というものを理解するためには、西洋と呼ばれるたった1つの社会だけを考察するのでは不十分という前提からスタートする。そこで、文明社会を捨てて未開の地へおもむいたレヴィ=ストロースが見たものは、文明社会がいかに自己中心的で、野蛮に世界を観察していたかということだった。
 
たとえばある文明社会の学者は、未開社会の原住民を 「発育不全の畸形」 とみなすような認識を持っていた。ようするに、いまだ原始時代のような生活をしている未開人よりも、機械を扱い自由な場所へ移動することが出来る文明人の方が「人間的に優れている」のだ、ということだ。
ここに「歴史」という一本の線が存在する。その線は「過去」から「現在」へとまっすぐに伸びている。我々文明人が立っているのは直線の一番左端、現在という地点だ。それでは未開人が立っているのはどの辺りだろう。線上のかなり右端あたりじゃないだろうか。歴史の年表を紐解けば、たしか原始時代は線上の右端っこの方にあったはずだ。
我々文明人は未開人のような歴史的段階(原始時代)をすでに超えていて、普遍的な進歩の末に、現在のような文明社会を築いたのだ。だから、我々にとって未開社会は「過去の自分」のような存在であり、見下すべき対象だったというのである。
しかし、レヴィ=ストロースはこのような文明社会中心の視点を激しく批判する。
 
未開社会は原始時代ではない。未開社会とは、原始から発展し、ある歴史的段階で国家になることを拒否した共同体なのだ。我々文明人は、新しい発明や歴史的変化が、より良い暮らし、より良い未来につながるとわかれば、それらを歓迎して自らの社会に取り込むだろう。しかし、未開社会は新しい発明や歴史的変化を出来る限り“無化”して、今の状態を際限なく続けていこうという「発展の歴史」を否定した社会構造を持っている。
ともすれば、未開社会の歴史の先には、本当に「我々のような文明の歴史」が待ち構えているのだろうか。文明人と未開人は、本当に「歴史の同一線上」にいるのだろうか。そんな疑問が生まれてくるはずだ。
 
未開社会が、文明社会のかつて辿ったコースを単に追いかけることが出来るというのは誤った歴史観である。未開社会には産業革命も、世界大戦も、テレビも、自動車も、携帯電話も存在しないし、これからも存在しない。
宇宙開発だとか、最先端医療だとか、そんなことに熱心になって時間を費やしている文明人のほうが愚かなのかもしれない。文明人が未開社会を見下しているように、あるいは未開人も文明社会を見下しているかもしれないのだ。未開人は未開人の価値観によって社会を構築してきたのだし、だから彼らには彼らだけの「地球史」があると言えなくもない。
文明社会が発展を善とする一方、未開社会は発展を悪とするなら、人間のあらゆる価値判断は決して普遍性を持ち得ないということではないか。
 
現代の若者は、大人達にとって理解不能だとよく言われる。電車内で化粧をする女子高生、階段やコンビニで座り込む男子学生。若者と大人とでは、風俗・文化だけでなく、常識(マナー)などの分野でも大きなギャップを持つようになった。
しかし、今現在の若者達が行っている理解不能な行動も、20年後の人類から見れば当たり前の習慣になっているかもしれない。今現在の大人達が常識としている規範も、100年後の人類から見れば異常なこととして見下される対象になるかもしれないのだ。我々が「正しい、間違っている」と判断しているあらゆる価値観は、我々の住む国、我々の住む時代といった「限定された空間の偏見」にすぎないのである。
人間は自ら思考して行動した結果、今のような社会をつくったと考えているが、実はそうではなくて、人間は生まれた時点からある社会構造に投げ込まれた囚人であり、一度その社会構造に投げ込まれると、その空間で常識とされる“偏見”があなたに浸透し、もはや曇りない目で世界を見るということは不可能になってしまうのだ。
 
 
posted by もときち at 16:27 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月02日

幽霊の誕生

カフカの「変身」で、グレーゴル・ザムザはある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気がついた。同じように、僕達はある朝自室のベッドで目が覚めると、自分が「透明人間」になってしまっていることに気がつくだろう。ただ実体が透明で目に見えないというだけでなく、存在そのものの認識がされない「透明人間」なのだ。その場所、その時間、世界から自分の存在そのものが消えてしまったということ。
電話がかかってきたので、どうにかして応答しようと受話器をとるのだけれど「声」が出ない。しかし、試行錯誤のすえ、僕達はいくつかの方法にたどり着く。
 
1.声は出ないが声の録音ができる。
2.ペンを使って文字を書くことができる。
3.写真・動画にうつることが出来る。
 
なんらかのメディアに、自分の行動を記録として残すことが可能なのだ。
その記録を駆使して、僕達は透明人間でありながら他者とのコミュニケーションをとることが出来る。メディア(媒介)といっても、電話のようにリアルタイムで相手に声を届けることは不可能で、あくまで「記録」として残したうえで、だ。(テープに自分の声を録音して会話するといい)
 
 
*    *    *    *

 
 
ジャック・デリダの「脱構築」という思考方法は、浅田彰の紹介によって日本でもかなり馴染みの深いキーワードになった。脱構築が我々に訴えること、それは言語によるコミュニケーションの不可能性に他ならない。デリダはその代表作「グラマトロジーについて」のなかで、ソシュール言語学における音声中心主義を批判した。
音声中心主義においては、人が話すということは、その人の言わんとする真意が「声」によって再現される。たとえば、いま僕があなたの目の前で「この花は美しい」と声に出して発言したら、その発言が今ここにいる僕の発言(僕の真意)として誰も疑わないだろう。リアルタイムで話された言葉は、僕の脳みそ(思考)と直結していて、常に現前的な主体、すなわち肉体のある「僕」の統御下にあり、僕自身が操っている言語である。さらに、それらリアルタイムで話された言葉を、ノートにペンで書き写す行為は同義とされている。いま僕が「この花は美しい」と声に出して発言し、同様に「この花は美しい」とノートに記録することは、両方とも僕の真意としてピタリと一致している…、それが音声中心主義の考え方だが、デリダは「話すこと」と「書くこと」の間には大きな断絶があると言う。
 
「書かれたこと」は「話されたこと」と異なり、常に現前的な主体と離れた場所で他人に解釈されてしまう。
僕が伝えたかったことを文字にしてノートに書いた後、僕がその場から姿を消せば、そこには書かれた文字だけが残り、その文字のご主人様は“本当に僕だったのか”という不確定性が纏わりつく。
今あなたの目の前には、僕の書き残した「この花は美しい」という文字が見えている。あなたはそれを僕の真意として受け取るだろう、「ああ、アイツはこの花を美しいと思っているんだな」と。しかし、そこへ僕本人(肉体)が姿を現して「この花は美しくない」と声に出して言わない保証はどこにもない。
僕があなたの目の前で話した「この花は美しい」という言語は、その瞬間において僕だけの「花の美しさ」であり、僕自身の統御下にあるので、他者には経験できない性質のものなのだ。だが、僕が文字にして書いた「この花は美しい」という言語は、すでに僕の統御下を離れて、誰もが発しうる記号的な「美しさ」として万人に解釈され、世間に流通し始めてしまう。
 
僕達は、書物やテレビなどの記録的媒介から、その人の真意(起源)にたどり着くことは出来ない。
起源、すなわち「一番最初のありのまま」すら、すでに「言葉」によって編まれている存在なのだから、僕達は永遠に物事の一番最初を知ることは出来ない。このようにして、物事の起源そのものを倒錯させていく思考方法こそ「脱構築」である。
情報の記録には、書籍にしろ、テープレコーダーにしろ、電子メールにしろ、必ず何らかの媒介=メディアを必要とする。そして、書かれた文字や録音された声は、僕自身が“本当に言いたいこと”ではない。僕の身代わり=幽霊とでも呼ぶべき見えない存在がそれらの言語を操っている。
 
これらのいずれもが可能とも思考可能とも正しいとも思われない限りにおいて、幽霊について話さねばならず、ひいては幽霊に対して話さねばならず、さらには幽霊とともに話さねばならない。
…それはいつでも、「その亡霊ではなく」 さらに別の者であるかもしれない。いつでも、別の者が嘘をつき幽霊に変装しているのかもしれず、他の幽霊がその幽霊のふりをしているのかもしれない。
これは、いつでもありうることである。もっと先で、われわれは亡霊どうしの社会、あるいは交流について語る予定だが、それというのもつねに一つならず亡霊がいるからである。<マルクスの亡霊たち:ジャック・デリダ:増田一夫訳>

 
ある朝自室のベッドで目が覚めると、僕達は自分が「透明人間」になってしまったことに気がつくだろう。このような状況下で、僕達は自分の意思を伝達するために、可能な限りのメディアに痕跡を残すことになる。
ブログのコメント、匿名掲示板の書き込み、インターネットに散乱する無数のテクスト…。それらを記した「言語の所有者」は、存在しない。いや、あるいはそれらのエクリチュール(書かれた言語)に所有者がいるとしたら、それこそ「幽霊」ということになるかもしれない。
 
―幽霊に実体はない。
幽霊は確かにそこに存在するはずなのだが、我々から幽霊を眼差すことは出来ない。彼らは我々との意思疎通を試みる際に、必ずなんらかのメディアを必要とする。たとえば、心霊写真は肉体(現前的主体)を持たない彼らの、唯一のコミュニケーション方法である。
そして、幽霊の痕跡はある視点においては発見されないが、いつの日か発見され、亡霊のものとして他者へ届くことになる。
 
 
posted by もときち at 09:20 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月07日

経験のメガネ

カント


遠くからこの写真を見ると誰かがゴルフをしている風景にしか見えないけれど、目を近づけてよおく見ると、それがプロゴルファーのタイガー・ウッズであるとわかるはずだ。タイガー・ウッズは黒人で、プロゴルファーで、いつも帽子をかぶってて…といった「タイガー・ウッズはこれこれこういう人間だ。」という我々の経験に照らし合わせたから、我々は写真に写っている人物がタイガー・ウッズだとわかったのである。
ところが、ここで「あなたはタイガー・ウッズさんですか?」と声に出して問い掛けても反応がないと、あなたは「本当に彼はタイガー・ウッズなのか?」と疑いだすことになるだろう。彼があなたの問い掛けに反応しない理由。それは彼が生身の人間ではなくラスベガスのマダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だからである(笑)
 
これらのことが意味するのは、我々人間は事物そのものを認識しているのではなく、目に映っている現象を見ているにすぎない。目に映っている現象から物事を判断しているにすぎないということだ。
このタイガー・ウッズの写真が、マダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だと認識しているのは、実際に写真撮影をした僕と蝋人形館に勤務している従業員くらいのものだろう。つまりこの段階では、僕と従業員の経験が共有されていることがわかる。
僕と従業員は「経験というメガネ」で、この写真を判断している。
 

カント

 
では、この写真をもっと遠くから見るとどうだろうか。
僕はもちろん、蝋人形館の従業員にも“誰かがグリーン上にいる写真”という程度の認識しかできないはずだ。つまりこの段階では、僕も、蝋人形館の従業員も、そしてこのブログを読んでいるあなたも、三者の経験は異なるにも関わらず、誰かがゴルフをしている写真という認識は共有されているのだ。哲学者イマヌエル・カントは、上記のように各人の経験が異なるにも関わらず、すべての人間に共有されている認識、それこそ普遍的なもの、純粋な認識だと定義した。
 
我々は物事を目に映っている現象で判断している。現象とは時間と空間によって生成されるものだ。リンゴが樹から落ちるという現象は、落ちる時間と落ちた空間によって生成されている。ようするに、時間と空間という形式は人間なら誰でも共有している認識というわけだ。
これを人間にあらかじめ備わっている認識=ア・プリオリ(先天的認識)と呼ぶ。
ア・プリオリなものとは、いつの時代の、どのような民族にも当てはまり、それは人間が生まれた時点で既に備わっているもの、経験が無くても、誰にでも認識できるものだ。たとえば「人を殺してはならない」という考え。どんなに気の狂った犯罪者でも、どんなに考えの偏った民族集団でも、人を殺すことは、なにかいけないことではないか…という「呼び声」が心の奥底から聴こえてくるはずだ。あなたがいくら悪徳の限りを尽くしても、この呼び声は、静かに、静かに心に響いてくる。もちろん、この呼び声は動物には聴こえない、我々人間のみが聴くことのできるものである。もし何かの認識によって行動するのなら、その認識があなた一人ではなく、あらゆる人間に当てはまる認識であるかを確かめること。カントは我々に「経験のメガネ」の外し方を教えてくれた、偉大な哲学者であった。
 
 
―先天的認識を探究したカント。
しかし、実際の彼は自分の判断力を他人の悟性に照らし合わせて判断することを無用とみなすエゴイストであったし、ようするに彼は他人の意見に対して聞く耳を持たなかった。まあ、有能な人間は誰しも自分の意見に絶大な自信を持っており、カントもまた例外ではなかったということだろう。
 
 
posted by もときち at 14:45 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月14日

世界劇場へようこそ


もし人間というのが永遠に死なない存在だとしたら、いつまでたっても消滅しないで、歳をとるということもなくて、この世界でずっと永遠に生きていけるものだとしたら、人間はそれでもやはり、私達が今こうやっているみたいに、一生懸命あれこれものを考えたりするのかしら?
つまり、私達は多かれ少なかれいっぱい物事について考えたりするでしょう。哲学とか、心理学とか、論理学とか。あるいは宗教、文学。そういう種類のややこしい思考とか観念とかいうものは、もし死というものが存在しなかったら、あるいはこの地球上に生じてこなかったんじゃないかしら?
―つまり、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするのかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、「時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや」ってことになるんじゃないかな。<ねじまき鳥クロニクル:村上春樹>

 
迫りくる「死」に対する一般的防衛法は、出来るだけそれを忘れること、自分が死ぬという事実を出来るだけ想像しないようにすることだ。
ともすれば、人間が形作る社会、科学、文化などの諸制度は、根本的には「死への不安」を隠蔽するための無意識から発明されたものだと解釈することができる。「死」は人生を限定された時間にする。それは人生が価値ある一瞬の連続になるということである。
 
1909年、彼は弱冠20歳にして「死」と向き合うことになった。マルティン・ハイデガー。若き日の彼を数回に渡り襲った心臓病は、彼の残りの人生に「死」の恐怖感を植え付けた。本を読んでいる時も、ペンを握っている時も、或いは眠っている時でさえも、彼はいつ死ぬか分からない不安に襲われ、いかなる時も「死」と同伴しながら道を歩まねばならなくなった。足元がグラグラした。自分の存在が今にも消えてしまうかもしれないという不安に揺らされて。
20世紀最大の哲学者ハイデガーの存在哲学、彼の定義する「死」は、このような背景のもと生まれる。そして、ハイデガーの代表作である『存在と時間』は、後に実存哲学、構造主義、ポスト構造主義などの哲学界ばかでりでなく、文学や言語学といった様々な分野に多大な影響を与えた。
 
存在とはなにか。この命題は哲学においてはるか昔から問われ続けてきたものだ。ハイデガーの存在論は難しい。まず、その使われている語句の意味についても、予備知識なしには理解不能といっていいだろう。たとえば、ハイデガーにおいて「世界」とは、一般的に理解されている地理的な、或いは空間的な世界(宇宙)のことではない。『存在と時間』が語る「世界」は、存在者の集合体でもなく、存在者の次元にあるものでもなく、存在の次元に属しているものだ。(「存在者?存在の次元?いったい何のことやら・・・」 と、首をかしげるのが普通です。安心してください。)
たとえばリンゴは「存在者」だ。狭義の意味で存在者とはようするに「モノ」のことである。つまり、物質や動物。物質に「者」がつくのはおかしいと思われるかもしれないが、ここでは物質・動物などの「モノ」を総合して「存在者」と解釈するしかない。
リンゴは存在者、だからリンゴは存在する。丸くて赤い、美味しいリンゴがあなたの目の前に存在している。しかし、リンゴの存在はリンゴではない。リンゴならばあなたの目で視ることが出来るが、“リンゴの存在”をあなたの目で視ることは適わない。あなたはリンゴは所有し、保存することが出来るが、あなたは“リンゴの存在”を所有し、保存することは出来ない。だから、失いようがない。リンゴを失くしてしまったと表現は出来るが、“リンゴの存在を失くしてしまった”と表現は出来ないだろう。
 
ちょっと待ってほしい。だとすれば、人間は自分の存在すら所持していないことになるではないか。
…そう、人間は誰も自分の存在を所持などしていない。それはただそこに存る。ハイデガーは、人間のことを「現存在」と語る。前述したように、人間は存在者のなかに含まれるのであり、同時に現存在は特殊な存在者でもある。なぜなら現存在(人間)には、我々人間とその他の全ての存在者(モノ)をその存在において理解することが出来るからだ。
ハイデガーの『存在と時間』において、現存在(人間)の分析は、世界内存在に定位して遂行される。人間は世界内存在である。ここでいう「世界」とは、先ほども述べたとおり、一般的に理解されている空間的な世界ではなく、存在に囲まれた過去・現在・未来を含む次元のことであり、その内部外部的環境に関わりを持つ(ゾルゲ)ことが出来るのは世界内存在である人間だけだ。そして、ハイデガーの哲学が目指しているのは、存在が時間から理解されるだろうという“証明”である。
 
 
この世界は劇場だ。人生は演劇であり、人間は役者である。シェイクスピアはそう言った。この「世界」をひとつの舞台とするならば、役者である人間は、あるときは働くことを演じ、あるときは泣くことを演じ、そしてあるときは老いることを演じる。このように人間は様々な役割を演じている世界の内の存在にすぎない。そして世界は、人間にとって、様々な役割と意味が混じり合った巨大な秩序体として成立している。
 
・ そして今、あなたはリンゴを食べた(役割を演じた。)
 
その役割は未来永劫、もう二度とめぐってくるものではない。いまこの時間、この場所で、リンゴを食べるあなたという存在は、地球上でこれから何千年、何万年の時間が流れようとも、二度と生まれることはない奇跡的な場面なのだ。
この瞬間、毎秒毎秒「存在は死んで」いく。「死」とは、人間が年老いて、心臓が停止するとか、生命活動が途切れることだとか、普通はそう解釈されている。しかし、このように解されると、ハイデガーの死の分析はまったく理解できないことになる。ハイデガーは、人間は 「既に死に至っている」 存在だと言う。あの瞬間、リンゴを食べるあなたの存在が死んでしまったように(二度と生まれてこないように)、人間は毎秒毎瞬その存在を死なせながら生きているのだ、と。 死は生の現象そのものである。
 
流れる音色、ハーモニー、美しい音楽。
もちろんそれが美しいと感じられるのは、ひとつひとつの「音」に対してではなく、音の連なり、時間の流れに対してである。前の音が消え、次の音が現れる、…とても不思議だ。
音が在るのは消えるからであり、音は在ると同時にまた無いのだ。連なる「音」は、どの瞬間もすべてが唯一無二。どの瞬間もかけがえなく運命的であり、独自のもの、すべてがクライマックスであり稀有な現象である。在ると同時に無い(消えていく)存在たち。生に含まれる死。どのような事物も、その中にそのものを否定する事物を含んでいるということだろう。
柵に囲まれた公園。入口から入って、園内を散歩したら出口へと足を向ける。ひと回りして、入った場所へ戻るだけのこと。 …そうだった、出口は確かにさっきまで入口だったのだ。
 
 
だから行こう、我々が開かれたものを見るために
我々が固有なものを、どんなに遠くとも、探し求めるために
ひとつのことは定まっている
真昼であろうと、真夜中に至ろうとも、常にひとつの尺度が、全てのものに共存している
しかし各人にもまた固有のものが割り当てられている
各人は彼が行きうるところへ行き、来うるところへ来るのだ

<パンと葡萄酒:ヘルダーリン>

posted by もときち at 21:42 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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