2009年06月10日

脱・恋愛市場

2008年9月、アメリカの女子大生ナタリー・ディランさんは、自身の「処女」をオークションに出品したことで一躍有名になった。オークションサイトで、ナタリー・ディランの写真付き画像が貼り出されると、世界中の男性から入札オファーが殺到し、2009年には入札額が3億円にまで高騰したという。彼女の言い分はこうだ。「私たちが今いるのは資本主義社会でしょう。自分の処女を商売道具に利用して何が悪いのかしら。」
彼女の主張は最もであり、我々は物事の本質を見逃してはならない。日本という国も、いま資本主義社会の真っ只中にあり、恋愛も性も、すべては商品化されているということを。
 
世界中のあらゆる国で、日本ほど「恋愛のコンテンツ」が発達した国はないと思う。いまや、世界のアダルトビデオ業界で共通語になってしまった「BUKKAKE(ぶっかけ)」ものや「GOKKUN(ごっくん)」もの。さらに日本発エロアニメには「HENTAI」という呼称が与えられ、需要の多さは言うまでもない。カナダのストリップ劇場では、ストリッパーが秋葉原の「メイド服」を着用して登場する始末だ。
しかし、異常に発達した「嗜好」に相反して、日本人ほどシャイな民族も他にいないという。確かに、日本人はここまで恋愛やセックスに関心を寄せるのに、挨拶代わりに身体的接触をする欧米などと違って、友人同士でハグもしなければキスもしない。それどころか、軽く肩にポンと手を触れようものなら、「セクハラだ」と喚かれ、裁判沙汰になりかねない。
これは、自己防衛本能というより、彼女たちが自身の肉体を「神聖な商売道具」と認識しているためかもしれない。肩に触れるのはもちろん、ハグも、キスも、無料で提供するなど言語道断というわけだ。
 
このように、恋愛やセックスに資本を投資する世界を「恋愛市場」と呼ぶ。恋愛市場は「異性にモテるため」のすべての消費活動である。化粧品、ファッションもそうだし、美容・ダイエットや結婚相談所…、数えればきりがないほど、恋愛市場は現代社会において拡がりを見せている。
ところが、最近そのマーケットから「撤退」していく男性層が現れ始めたという。いわゆる「草食系男子」あるいは「秋葉系オタク」などとカテゴライズされた男性である。恋愛市場はそのような傾向(顧客離れ)に危機感を抱いて、「どうすれば草食系男子を振り向かせるか」だとか「セックスしたがらない男性をその気にさせる方法」といった特集をあらゆるメディアで展開していくことになる。男性が恋愛をしなくなってしまったら、女性達がコスメ、ファッション、ブランド品で自らを武装化する理由がなくなってしまうからだ。
 
女性達は自分の肉体を「商品」であると、本能的にわかっている。アメリカの女子大生が言及したように、恋愛とは経済活動であり、自分の若い肉体は消費期限のある商品である。だからこそ、自分自身が恋愛市場における「人気商品」であるために、自らをパッケージングして、積極的に売り出していこうという認識だ。
そんな女性の健気(?)な努力に反して、草食系男子は「俺はもう疲れたから、そんなものに大切なお金を消費したくない」と、市場から撤退した連中である。だからこそ、彼らは女性からの反感を買っているのだ。女性達に「肉食系男子と草食系男子のどちらが好き?」というアンケートをとると、圧倒的に「肉食系」に人気が集まるのは、女性達にとって、肉食系男子は自分を購入してくれる優良顧客だからである。
 
恋愛市場においては、男性は女性を喜ばせるために消費活動を行わなければならない。草食系男子は、そのような消費活動を拒否する。さらに「秋葉系オタク」のように進化すると、「商品化された生身の女性」ではなく「アニメ」や「ゲーム」といった自分自身の趣味のために積極的に消費活動を行う。つまり、秋葉系オタクは、恋愛市場という既存のビジネスモデルを破壊しかねない「イノベーター」であり、恋愛業界にとっては天敵と言える存在なのだ。恋愛業界が、自身の利益にならない男性層を徹底的に糾弾することは、ある意味で道理にかなっている。
だが、ここで明記しておきたいのは、恋愛市場にいる人間が「草食系」や「秋葉系」を見下しているように、恋愛市場から撤退していった彼らも、「君達、いつまでそんな無駄なことに金かけてるの?」と、市場に翻弄される者を見下しているということだ。
「あの秋葉系オタクに、恋愛を謳歌している私たちが見下されている?…そんなバカな。」
まあ、これは極論だけれど、少なくともコンビニに並んでいる女性雑誌、グラビアアイドルの表紙を見て「魅力的だな」と感じる人もいれば、「気持ち悪い」と、生理的嫌悪感を感じてしまう人間もいるのである。
 
 
posted by もときち at 15:01 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月15日

瞬間の囚人たち

先日テレビで「秋葉原通り魔事件」が取り上げられていた。事件から1年ほど経過したということである。
そのテレビ番組のなかで良識ある人が「このような事件を忘れてはならない、風化させてはならない」と訴えていたが、もうひとつの方法論として、このような事件を抑制するためには、マスメディアがむやみやたらに騒ぎ立てない(風化させる)ことも選択肢の一つである。
 
何年か前に、このような凶悪犯罪は何故起こるのか?といった公開議論がされるなか、ある若者が何気なく「どうして人を殺してはいけないんですか」という言葉を発し、そこに居合わせた大人たちが、その問いに対してうまく返答できなかったことが話題とされた。
 
なぜ人を殺してはいけないのだろう。
哲学者のフリードリヒ・ニーチェなら、あるいはこう答えるかもしれない。「人は殺してもよいものだ」と。もし君が世の中にうんざりしていて、人生においてどうしても生きる喜びを感じることが出来なかったとき、君が人を殺すことによって、人生におけるただ1つの喜びを感じることが出来るというのなら、あるいはニーチェならそれを推奨するだろう。
だが、彼にはひとつだけ言っておかねばならないことがある。君は殺人を犯すことによって、自分が重罰を受ける覚悟が出来ているのか?と。
確かに人を殺すことで、君の「イライラ」はすっきりするだろうし、もしかしたら君は快感を得ることが出来るかもしれない。でも、その快感はほんの一瞬しか続かない。君がその一瞬を終えた後、それから10年…、20年…、あるいは死に至るまで、君の自由は奪い取られ、君は長期的に苦痛を強いられることになるだろう。君は本当にそれを引き受ける覚悟が出来ているのか。
僕達が生きているのはこの瞬間という現在だけではない。僕達は過去にも生き、そして未来にも同時に生きている。「今が幸福なら明日なんていらない」なんて、流行のJ−POPに出てきそうな歌詞だけれど、秋葉原でナイフを振り回した若者も、あるいはオンラインゲームに人生を捧げる子供達も、いまこの瞬間の快感だけを求めて、あまりにも「割に合わない未来」を引き受けてしまっているのだ。
 
60年の生涯の中で、死刑宣告を受け、処刑台に立たされた経験すらあるロシアの作家。彼の名はフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。銃殺刑執行直前に、彼の脳裏に浮かんできた後悔は「白痴」という小説の中で如実に記載されている。
 
もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だって無駄に費やしやしないだろうに!
…男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変って、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持ちになったそうだ。<白痴:ドストエフスキー:木村浩訳>

 
僕達はある程度まで大人になると「いつか自分は死ぬ」ということを考えるようになる。そして迫り来る「死」だけが、すべての人間にとって回避不可能な最終的に行き着く果てなのだ。だから、人はあらゆる方法を用いて「死」から逃れようとする。自分が死んでも、自分の子供が生きていけば、自分は存続していける。自分が死んでも、自分の書き記した著書が残れば、自分は存続していける。あるいは…。
 
2008年6月8日、東京・秋葉原でひとりの若者が、所持していたナイフで通行人を立て続けに殺傷していった。それは稀にみる凶悪犯罪、悲惨な殺人事件としてマスメディアが全国に向けて一斉報道し、視聴者の日常的な時間の流れを断ち切った。
この事件について、メディアは「若者の心の闇」だとか「現代社会の病理」といった特集をし、関係者を含め日本中が「この殺人事件は何を意味しているのか」と自らに問うた。しかし、そのように「ワイドショーの独占」をすることこそ彼の狙いであったし、まったくマスメディアは彼の目論見通りに動かされたのである。そして、テレビ番組が犯罪に過剰な意味づけを行なうことで、彼は人々に記憶され、彼の目的(自己の存続)は達成されたことになる。
残念なことに、このような事件は未然に防ぐことが出来ないし、これからも起こる確率は十分にある。そして新しい事件が起こった際には、僕達は「前例」として秋葉原通り魔事件を思い出すだろう。秋葉原通り魔事件の発生直後に「酒鬼薔薇聖斗」などを思い出したように。
 
「このような事件を忘れてはならない」と、誰かが言った。彼の言う通り、1年の時を経てテレビ番組で特集されるまでは、多くの人があの事件のことを忘れていたはずだ。
しかし、そのように「事件を何度も繰り返し思い出させる」ことが犯罪者の願望であるなら、この病的な社会構造を問いたださない限り、いわゆる「若者の心の闇」などといったものは永久に解明されないままである。
 
 
posted by もときち at 13:03 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月29日

すべての消費活動はステータスである

子供が欲しいと思っても、なぜか産めないでいる女性がいる。妊娠した女性と、今後も産まないであろう女性。同じように子供を欲しいと願っているにも関わらず、両者の差はいったいどこから来るのだろう。
その理由のひとつに挙げられるのが家庭の経済力である。経済成長が永遠に続くと思われていた時代ならば、安心して妊娠することが出来たものだが、一寸先は闇、現在のような不況暗黒時代に子供を産むことは、一か八かの賭け、博打みたいなものなのだ。
勝間和代みたいに自分自身の経済力が安定する…、それが一番の理想ではあるのだけれど、やっぱり女性が将来にわたって安心して子育てをするには、養ってくれる「エリート男子」の確保が最優先事項だ。

そんなわけで、恋愛市場において女性は常にお金持ちの男性を探している。ところが、この「お金持ちの男性」というのが、とっても見分け難いものなのだ。なにしろ男性らに「俺はお金持ちです。」という名札がついているわけでもなく、ましてや「預金残高はいくらですか?」なんて失礼な質問をするわけにもいかない。しかも、最近の男性はみんな見栄っ張りで、みんなお金持ちのフリをするため、誰が本当のお金持ちか、女性の側からするとさっぱり分からない。
トヨタのクラウンに乗っている男性、ロレックスの高級腕時計を身につけている男性、誕生日にブランドもののバッグをプレゼントしてくれる男性。一見すると、彼らはお金に余裕のある男性のように見えるけれど、実は住まいが「おんぼろアパート」で、女性を満足させるがために、借金をしてでも、必死に見栄をはり続けている貧乏サラリーマンであるかもしれない。
ちょっとアンタ!アタシはアンタのことを金持ちだと思って付き合っていたんだからね!それなのに何よこの狭くて汚い部屋は。しかも、実は借金してましたですって? ふざけんのもいい加減にして。アンタみたいな詐欺師にはもうウンザリ、別れましょ!
…とまあ、こんな具合に肉食系女帝の手によって偽りの金持ち男性は淘汰されていく。あなたが彼女に贈ったブランド品も、今ではyahooオークションに出品されているかもしれないから、検索してみるのもいい暇つぶしになるだろう。

ところで、僕は以前から「ブランド」というものに対して懐疑的だった。たとえば、シャネルというブランドもののバッグがある。種類にもよるけれど、購入するとしたら日本円にして最低十万円は固い。かたや、安物の中国製バッグがある。もちろん無名ブランド、日本円にして数千円もあれば購入可能だ。
両者の歴然たる価格差はいったいどこからくるというのだろう。確かに有名ブランドのバッグというのは機能性に富み(僕は持ったことはないけれど)あるいは使いやすいのかもしれない。にもかかわらず、僕には両者に(機能性、素材、工賃などを換算して)ほとんど十万円もの差があるとは到底思えない。
実は、彼女達が買っているのはシャネルのバッグそのものではない。彼女達が買っているのは、シャネルのバッグを持っているセレブなアタシという目に見えないイメージなのだ。

ジャン・ボードリヤールという哲学者はこれを「記号消費」と名づけた。現在の消費社会においては、バッグや自動車といった商品が持っている機能的価値とは別に、それらの商品が持っているブランド=イメージの方が重視されている。バッグとはただ単に小物を入れて運ぶだけの商品に過ぎないが、シャネルのバッグ所有者には常に「高級ブランドを持っているセレブな女性」というイメージが纏わりつく。
さらに、ボードリヤールはこれをブランドものの商品のみならず、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品にまで及ぶとした。消費社会においては、モノはモノそれ自体の有用性としてではなく、イメージとして消費される。洗濯機が三種の神器などと呼ばれた時代においては、洗濯機は洗濯という機能だけでなく、それを所有しているというステータス(社会的地位)のゆえに消費されたのだ。

そのおびただしい数、そのさまざまな形態、流行の作用、さらにはその純然たる機能を超えたあらゆる性質によって、モノは今なおひたすら社会的価値(地位)を装おう。地位、それはある種の人々にとっては生まれによってしか与えられない宿命の恩寵であり、大多数の人々にとっては、その逆の定めによって決して辿り着けないものである。
…あらゆる渇望の根底には、生まれながらの地位、恩寵と優越をもたらす地位という理想の目標が存在しており、この目標はモノのまわりにもつきまとっている。装飾品やガジェットなどのフェティッシュに熱中する世間やこの種の妄想を生じさせるものもやはり地位の観念なのだ。<消費社会の神話と構造:ジャン・ボードリヤール:今村仁司訳>


そんなわけで、恋愛市場において我々男性が金持ち役を演じるためには、これからも過剰消費をし続けていかねばならない。もはやそれは高級外車や腕時計だけの話にはとどまらず、「毎晩高級レストランで外食。」「1ヶ月に1回は海外旅行でリゾート気分。」といった、あらゆる消費活動が彼にとってのステータスになっていくのだ。


posted by もときち at 14:26 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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