2009年04月29日

労働の本質

2つの桶があり、1つの桶は空っぽ、もう1つの桶には水が入っている。
あなたは桶に入った水を空っぽの方の桶に移す。全てを移し終えたら、空っぽになった方の桶に、再び水を移す。あなたは来る日も来る日もこの作業を繰り返す。孤独で、無意味で、永遠に繰り返されるその行いは、決して誰の心にも届くことが無い。
ドストエフスキーは云う。「無意味な労働こそ、究極の拷問である」と。
 
労働における「喜び」とは、自分の行いが誰でもいい“他者に届いている”ということだ。どのような類のものであっても、僕達は“仕事”を通じて他者とコミュニケーションしている。製品工場で機械に部品を取り付ける作業であっても、路地のゴミ拾いをする慈善活動であっても、その行いは必ず“誰かのため”になっているはずだ。そして、あなたの行いに対してポジティブなリアクション(他者からの感謝)があれば、それがどんなに苦痛を伴う作業であっても楽しくなるだろう。
 
 
*    *    *    *

 
 
近代社会においては、労働者の提供する「労働」には「賃金」という名の価格がつけられており、商品の価値の大きさは、その商品を生産するのにつぎ込んだ人間の「労働量」によって決定する。企業が商品を生産するためには「労働力」が必要なので、資本家は労働者を雇うのだ。労働者は自分が生きていくために必要な賃金と同じだけの価値を、会社という組織の中で生産する。だから、労働者は自由意志で“自分の労働力を売る”ことができる。
このような近代資本主義が発展したのは、生産手段を持たず、自分の労働力を売るほかないプロレタリアという階層が存在したからであり、彼らは、自身の労働力を売って得た賃金で商品を購入することが出来る消費者でもあった。
 
近代資本主義は、労働力が生産した商品を、明日の労働力を再生産するために自ら購入するという円環的システムだ。それは「人間=商品=貨幣」という交換原理のシステムで、そこではまるで人間が生きた貨幣(クロソウスキー)であるかのような錯覚を受けてしまう。
経済人類学の創始者カール・ポランニーは、そのシステムを“悪魔の碾き臼”とした。労働という本来は価格をつけてはいけないものに価格をつけ、労働力そのものを商品にすること(商品にならないものの商品化)は人々を不幸にする。
商品の本質は「再生産」が可能であるということだ。食べてしまった野菜は、また栽培すればよい。 焼失してしまった住居は、また建て直せばよい。だからこそ、商品には価格が設定されている。しかし、労働力そのものは再生産可能であっても、それを持つ人間の生命は有限なのだ。過ぎた時間は二度と戻ってはこない、人生に価格をつけることは不可能ではないのか。
 
仮に人生に価格があるとしたら、僕達一人ひとりが持っている“時間”という資産は、年齢とともに価値が薄れ、死亡した時点で文字通りそれはゼロになる。そして、若年労働者が消費している時間は、人生の中で最も付加価値の高い時期といってよい。20代とは、自分自身という資産をいかに活用し、そこから未来へ向けて、どれだけの幸福を生み出せるか真剣に考えるべき時期なのだ。そのような大切な時間を、好きでもない会社に捧げる必要なんて少しもない。自分の好きなことをすればいいじゃないか! …といった結論に辿り着くのは自然な流れだろう。
もちろん、そこには厳しいルールが設定されていることも忘れてはならない。好きな人生を選択したのは君自身だ。だから将来どのようになっても、その責任は自己責任として、君が引き受けなくてはならない、ということを。
 
 
posted by もときち at 03:12 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月04日

給与という負債

ビジネスは経営者と社員の交換関係によって成り立っています。経営者に与えられた使命は「会社に利益を生みだすこと」です。利益は差異性によってのみ発生するもので、そのような差異性を生み出す源泉として経営者は労働者を雇う必要があります。ですから、ある意味で社員は自分の「労働力」を会社に売っているのであり、その交換報酬として給料を受け取っていると言えます。( ※ 経営者と資本家とでは種類が違いますが、ここでは「経営者=資本家」として話を進めていきます。)
さて、労働者のなかには「管理職」という特別な地位を持った者も存在します。管理職は自分の部下達を評価する立場にあり、以前は彼らも「評価される側」に立っていた肩書きのない労働者でした。そして、労働者の管理・育成という業務こそ共通すれど、経営者と管理職は似て非なるものです。
 
経営者と管理職の違いは何か。それは“自分以下の社員に与えるものがあるか、ないか”の違いと言ってよいでしょう。ビジネスは経営者と労働者との交換関係で成り立っていると書きましたが、経営者は会社の財産を自分の所有物と考えており、その中から必要な分だけを社員に「給与」している者です。この場合、管理職も経営者側から給付を受けている「労働者側」の立場であることがわかるでしょう。
雇われている社員は、給料を受け取ったら「労働」でお返ししなくてはいけないのですが、彼らは受け取った給料分だけピッタリと経営者に「返礼」できるわけではありません。不可分なく行う交換を「等価交換」といいますが、ビジネスの現場において「給与」と「労働」の等価交換はまず不可能なものでしょう。相手との対等な関係を意識すると「同等」か、もしくは「それ以上」の返礼をして、始めて受贈者(労働者)は安心を得ることが出来るのですから。
経営者は社員に金銭を「贈与」する。そして社員は「本当に会社から与えられた分だけ自分は働いているのか?」と、常にプレッシャーを感じながら労働します。他人から親切を受けた弱者がある種の「屈辱感」を抱くように、管理職を含む全社員は、いつも経営者に対して「負い目」を感じているもので、その負債を返済するように彼らは労働に駆り立てられるのです。
 
給付はほぼ常に、気前よく提供される贈り物や進物というかたちをとっている。さらに交換(つまり社会的分業そのもの)の必要形態にこのような性格を与えた多様な原則をすべて述べたいのだが、ここではその1つについてのみ深く考察しよう。
それは、未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務付ける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのかという問題である。<贈与論:マルセル・モース>

 
人類学者マルセル・モースは、贈与(相手に何か贈り物をすること)には特殊な力が宿っていて、それは受け取った側に返礼を強いる効果があるものだと説きます。
つまり、経営者は社員に給料と言う負債の烙印を押しつけ、債務者となった社員は、今度は自分が贈与すること(労働すること)で、はじめて身に帯びた負い目の呪いを「祓う」ことが出来るわけです。
 
世の中には太っ腹な、気前のいい人間が多く存在します。 しかし、贈与の力を巧みに使いこなす彼らからは、贈り物をすることにより受贈者を債務者の地位に貶め、自身の優位性を確保しようという下心が見えなくもありません。(タダほど高いものはない、とよく言いますね。)
哲学者のイマヌエル・カントは、他人から親切を施されることによって生じる「負債」を異様なまでに嫌悪しました。親切という行為は不平等を通じてのみ現れるものだと彼は言う。他人に親切を施すとき、あるいは他人に金銭を与えたりするとき、与える側にはある種の「優越感」が生まれます。街頭で募金をしたり、友人にご馳走したりする行為は、相手を喜ばす以前に自分でも「気持ちいい」ものでしょう。我々のあらゆる言動には「自己利益」のためという「下心」が働いていることを忘れてはいけません。
 
 
posted by もときち at 11:31 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月06日

社畜化の詐術

仕事ができる若手というのは、会社経営者にとっては喜ばしい存在だ。しかし、これが「独立心旺盛で仕事のできる若手」となると話は別で、彼らのようなタイプは、会社経営者にとっては危険な存在になるかもしれない。サラリーマン(労働者)は自らの労働力を資本家に売っている。だから、会社が嫌になれば自分の労働力を売らないという選択も出来る。しかし、会社に利潤を生みだしてくれる「若手」は貴重な存在であるため、彼らがそのような選択をとらないように、経営者はあらゆる手段を講じる。
 
山田君は新卒学生としてA社に入社して以来、営業部門において高い業績をあげてきた「期待の新人」であった。彼の活躍ぶりは、いわゆる「仕事のできる若手」として社内に知れ渡り、将来的にはA社を牽引していく存在になるだろうと、経営陣から早くも注目を集めていた。
そんなあるとき、会社経営者(取締役)の1人が、山田君に世間話を持ちかけた。それは「結婚」についての話題であった。
 
「君もそろそろ良い年齢だな。どうだ、結婚する相手はもう決まっているのか?」
「いやあ、まだ全然そういう相手が見つからなくて、困っているんですよ。」
「そうか、まあ早く結婚してご両親を安心させるのも、立派な仕事のうちだぞ。」
 
あなたが企業に勤めるサラリーマンであるなら、もしかしたらこのような場面に遭遇した経験を持っておられるかもしれない。
…不思議なのは、山田君の親でもなく親戚でもなく、少なくとも山田君のプライベートにおける道標でもない経営者は、なぜ彼に結婚をすすめてくるのかということだ。「俺が結婚しようがしまいが、アンタ達には関係ねーだろ」と、言いたいところだが、実は山田君の結婚は、経営側にとって大いに意味のある行為なのだ。
 
男にとって「結婚」とは責任が生まれる儀式である。結婚をすると、男は配偶者としての妻を養っていかなくてはいけないし、あるいは子供が生まれれば子供も養っていかなくてはならない。たとえそのような状況から逃げたところで「養育費」は発生するだろう。 つまり、結婚とは「安定した収入を常に得なくてはならない」という強迫観念を男性に植え付けるシステムなのだ。
するとどうだろう。 妻子を持った山田君にとって、今勤めている会社がなくてはならない神の如き存在へと変貌するではないか。山田君は会社を「安定した収入」を与えてくれる信仰の対象として崇拝し、経営者の言いなりと化す。守りの姿勢を決め込んだ彼は、少なくとも仕事を放り出して雲隠れするなどといった行動は起こさなくなるし、独立起業なんてもってのほかである。
 
嘘のような本当の話―。夢と希望に満ちた若者が会社に入社する。そして、彼が徐々に成長していく過程で、あるとき「お、こいつは将来使い物になりそうだな」と、経営者の目にとまる日がやってくる。すると経営者は「この若者を俺の言いなりに」あるいは「反抗しない使いやすい部下」にする装置として「結婚」の話を出してくる。妻子をもった男性社員ほど「扱いやすいもの」はないからだ。
これは、多くの経営者が用いている社畜化の詐術である。
このような手法を用いる経営者は、ある意味で「知恵」が働く有能な人間だろう。そして、社畜と化した若手社員にも希望はある。それは、少なくとも結婚を奨められた男性は「会社から必要とされている」という点である。
もちろん経営者は「我が社の利益」のために結婚をすすめたのであり、彼の労働力の使い道がなくなれば、簡単に切り捨てることも有りうるだろう。結婚はもちろん、実家で両親と生活している若者に「独り暮らし」を奨める経営者にも、似たような欲望が働いていると言ってよい。
独立心旺盛な若手を「我が社の給料なしでは生きていけないような状況」に追い込む詐術を用いる生き物がいる、あなたはそれを忘れてはいけない。
 
 
posted by もときち at 14:34 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月24日

コミュニケーション考

僕はビジネス、とりわけ「業務の効率化」について熱っぽく語る人間が苦手であり、個人的にあまりお近づきにはなりたくはないと思っている。にもかかわらず、ビジネスの世界においては業務の効率化やコスト削減が必要不可欠だし、かく言う僕自身、無駄を省き最大限の結果を導き出すという「業務の効率化」を大いにすすめる、矛盾した仕事観を持つサラリーマンにすぎない。そのような前提で、今回はコミュニケーションという問題について書いてみる。
 
昨今、他者とのコミュニケーションについて議論するとき、必ず引き合いに出されるのが電子メールというツールである。多くの大人は電子メールを批判的にとらえ、若者のコミュニケーション不在を嘆くものであり、若い世代はそれに対して、メールは忙しい相手でも気軽に連絡を取り合える、最高のコミュニケーションツールといった評価を下している。
この文脈でいうと僕個人は「若い世代」に属するものであり、やはり昨今のビジネスにおいては、メールが最も便利な情報伝達ツールだという言説に、ほぼ異論はないのである。
 
 
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「時間は世の中でも最も価値の高い財産だ」という言葉がある。人間はこの世に生をうけた時点で「時間」というかけがえない財産の限度額が決定付けられている。その財産は決して増えることがなく、生まれてから後はただひたすら死に至るまで、その財産を消費していくばかりである。そして、僕たちはあらゆる局面で他人の時間を奪いながら、あるいは他人に時間を奪われながら生きている…、それが人生である。
友人に電話をかければ、話している分だけ、友人に人生という時間を奪われてしまう。会社に就職すれば、会社で働いている分だけ、会社に人生という時間を奪われてしまう。あるいは、本を読めば読んでいる分だけ、本に人生という時間を奪われてしまう。
もちろん、こんなことをいちいち考えながら生きている神経質はあまりいないだろうけれど、時間が有限なものだという意識を常に持ち、他人の時間をやたらと搾取するような、そんな振る舞いだけは抑制していかなければ、失礼に当たるというものだ。
アメリカはそういった「時間に対する意識」が最も顕著に現れている国である。たとえば、日本には「飛込み訪問」という営業スタイルがあるが、アメリカにおいては、アポイントもとらずに相手先に訪問して、他人の時間を一方的に奪ってしまうような行為は、最低のマナー違反として認識されているという。
タイム・イズ・マネー「時は金なり」である。
 
そのような意味で、電子メールは他人の時間を無理矢理奪うことのない、極めて礼儀正しいツールということが出来るだろう。メール以前のコミュニケーション手段というと、電話であり、面会であり、いずれにせよ自分の都合で他人の時間を拘束してしまうものであった。一方で、メールは他人の時間を束縛しないうえ、電話のように自分の伝えたいことが瞬時に相手に届くという、いくつもの長所を兼ね備えている。そんなわけだから、メールを送った直後に「メールを送ったので見てください」と、いちいち電話で伝えてくるような人は、まったくもって「メールを使えてない」のである。そういうものは、メールを送った後に返事が来なければ、経過時間を見計らってから電話確認すればよい。
「電話」もそうだけど「会議」というのも実に厄介な代物である。世の中には、なにかにつけて会議(打ち合わせ)をしたがる「会議大好き人間」というのがいる。関係ないような社員を片っ端から集めて、ブレインストーミング紛いの事を始めるのだが、たいして大きな成果をあげられず、気がつけば2〜3時間はあっという間にロスしてしまう。おまけにさんざん遅刻してきた会議参加者が、いきなり見当違いのことを言い出して、議論が振り出しに戻ってしまうという例も多い。
会議とは結論を導き出す場であって、企画やブレインストーミングをするような場ではない。個人のアイデアを募るというのなら、それこそメールが最適なのであり、事前にメーリングリストを通じて議論を煮詰めておくことで、時間の無駄は最大限省けるのである。
 
このように書いていくと、メールはまさに最強のコミュニケーションツールのように思えてしまう。しかし、メールは便利な一方で、実に御し難い問題も孕んでいるのである。メール・コミュニケーションは、相手の顔が見えないし声も聞こえないから、普段では言えないようなキツい言葉も簡単に言えてしまうという、人間関係をギクシャクさせる面を持っている。インターネット上で「荒らし」や「誹謗中傷」が絶えないのも、相手が自分の目の前にいないという状況があってこそだ。彼らには「何を言っても自分の所在はバレないし、私が被害を受けることはない」という自信があり、このような人間は、面と向かって話をすると案外「いい人」で、あまり会話が得意とは言えないようなタイプが多いのだ。
 
僕自身も口下手で「会話」というのが実に苦手である。苦手…というか、非常に面倒くさく感じてしまうことがしばしばある。実会話によるコミュニケーションは「わたし」と「あなた」の2人が、同じ時間軸のなかで共通の話題を声に出してしゃべることにその意義がある。しかし、世間には少なからず「他人の心理が読めてしまう」人間がいることを忘れてはならない。そのような人は、会話相手と同じ時間軸上にいるように見えて、実はそれよりもずっと先の世界へ、一瞬にして到達してしまうような速度を備えている。
天才的な棋士である羽生善治と、まったくの素人棋士が将棋で対局したとしよう。おそらく、羽生は数手打った時点で終局が見えてしまうに違いない。一方で素人挑戦者は、まだ勝負は始まったばかりで終局など見えるはずもなく、たいそう時間をかけて次からの戦略を練っているのである。このとき羽生に到来する思いは、いったいどのようなものだろうか。「すまないけれど勝負はもうついているんだ。君のやってることはムダなんだよ、もうやめにしよう」といった気持ちなのだろうか。あるいは、北斗の拳だったら「お前はもう死んでいる」と言うかもしれない。
会話によるコミュニケーションもこれと似て、相手が1つの話題について話し始めたとき「この人が最終的に何を言いたいのか」を、一瞬にして把握してしまう人間がいる。相手の気持ちが全て手に取るようにわかるから、彼は言葉を発する気がしない。羽生と素人棋士がそうであったように、2人の時間軸は異常なまでにずれており、だからこそ、彼にとって他人と会話をすることが、とてつもなく不毛な行為に思えてしまうのだ。
 
現代人の多くがこのような面倒を嫌悪するあまり、時間軸に左右されない「メール」を愛好しているのではないかと勘繰ってしまう。しかし、コミュニケーションとは本来「ムダの集積を楽しむ」ものだという解釈も出来るだろう。「相手が最終的に何をいいたいか」分かってしまうからといって、相手との会話を拒否するという思考はあまりにも短絡的である。
自分の言いたいことを最小限の言葉数で相手に伝えることが「コミュニケーション」ではない。人が何か言葉を発する時、そこには必ず何かしらの「余計な情報」が含まれているものであり、むしろそういった「余計な情報」からこそ、その人の個性が生まれてくるのだ。もしも「結論」だけを機械的に発する人間がいるとしたら、その人はおそろしく無個性であり、きっと現実世界では生きていけないだろう。
 
個性はそもそも「ムダの集まり」から形作られるものである。あの映画を見て彼女はこう感じた。あの本を読んで彼女はこう思った。一刻も早く結論を知りたい人にとっては、彼女がどうこう思ったというのは「余計な情報」以外の何ものでもない。
にもかかわらず、そのような「余計な情報」にこそ彼女の個性が脈打ち、彼女を知りたい…、彼女と話したいという欲求が生まれてくる。彼女が「最終的に何をいいたいか」は一瞬にして分かってしまうけれど、しかし「彼女がいったい何者であるか」は、僕達は永遠にわからないからだ。
 
 
posted by もときち at 13:51 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月28日

知られざる功績

何年か前に年金記録問題というのがあって、その事件で多くの人が社会保険庁に対して強い不信感を持つようになった。当該事件の一番大きな問題は、年金記録のシステム変更における職員の入力ミスと言われている。
はるか昔(?) 厚生年金は紙媒体の手作業によって加入者の積立てを管理していたのだが、何十年か前にそのデータをオンラインのコンピュータシステムに移し替える際、入力担当者が「入力し忘れた」というもので、それが最近になって発覚したということである。
現在の年金担当者からすれば「なんで俺が当時の担当者の尻拭いをしなきゃいけないんだよ。悪いのは入力ミスしたヤツであり、俺に責任を取れと言うのは筋違いじゃないか」と叫びたくもなるが、しかし、企業が不祥事を起こしたとき「それはうちの社員がやったことで、社長である私は無関係です」といった弁解が効果を持たないように、やはりこれは、社会保険庁全体の責任ということになってしまうのである。
 
企業の不祥事にしろ何にしろ「それは私の責任ではない」という類の言葉がよく聞かれるようになった。
90年代から推進された企業の業務効率化、成果主義やら実力主義という「利益を生み出すことこそ至上目的」としたビジネスの風潮なのかもしれない。
成果主義や実力主義は「格差がやる気を生む」という思想に基づいている。しかし、職場で成果主義を採用すると、社員は「自分の評価を高めなければならない」という強いプレッシャーに支配され、自分の業績アップに寄与しない仕事をその視界から排除し、社内で何か問題が起きたら「自分には関係ない」という無関心の態度を持つようになるのである。
会社の玄関口が汚れている、だからといって私が自主的に掃除をしたところで昇給には繋がらない。同僚が仕事のことで困っている、だからといって私が彼を助けたところで出世には繋がらない。私に利益をもたらさない一切の仕事は、私には関係ないのだから行う必要がない。それが成果主義の鉄則なのだから。
 
今ここに、1人の社員が会社のコンピュータシステムにおける重大な欠陥を発見した。これを放っておいたら、何十年か後になって大問題に発展することは間違いない。
しかし、そのとき彼を不意に襲ったのは「この問題を人知れず俺が処理したところで、いったい誰が俺を評価してくれるというのか、いったい誰が俺に感謝してくれるのか」という気分であった。もしもこの場に社長でも居合わせたなら「これ、俺がやっておきます!」と気持ちよく立候補できるものだが、あいにくこの問題を発見してしまったのは俺1人だけで、他は誰も知らない。俺にとって、この問題は片付けるだけの価値があるのだろうか―?
ここで彼が、未来の会社のためを思って問題を処理すれば、それこそ問題は未然に防がれてしまい、第三者が彼の功績を知る機会は永久に訪れない。仮にこれを経営者に自主申告しようものなら「自分の功績を売り込む器の小ささ」を指摘されかねないし、結局のところ彼は八方塞がりである。もちろんこれは極端な話だけれど、彼の言う誰も評価してくれない仕事とは、成果主義・実力主義といった社内競争型のシステムが、その価値を排除してしまった「知られざる功績」なのだ。
 
自分ひとりの能力で、どのような業務においてもそれなりの結果が出せる人にとっては、成果主義・実力主義というものは歓迎すべきシステムなのかもしれない。しかし、このようなシステムは、会社内部において様々な問題を生み出すことを忘れてはならない。成果主義を採用する職場で、自分がもっとも評価される究極の方法は「社内のライバルに損失を与えること」である。だから、お互いが協力しなくても「自分が結果を出していれば良い」という社員が、最も高い評価を享受するようになってしまうのだ。
また、よく言われる「技術のブラックボックス化」も、こういった社内競争型のシステムが生み出した産物である。技術のブラックボックス化とは、会社にとって重要な情報資産を自分ひとりで抱え込み、いざ彼が退職しようものなら、誰も彼の業務を引き継げないような事態のことを言う。彼は自分の地位を守るために秘密主義を徹底し、それ以下の人材は全く育たないという土壌がそこに生まれるのである。
 
現代人は口を揃えて「忙しい、忙しい」というけれど、それは職場における自分の評価を高めることに忙しいのであって、彼らは「俺は誰にも迷惑をかけないから、お前らも俺に迷惑をかけるなよ。」と、ご丁寧に宣言されているのだ。
 
 
posted by もときち at 00:20 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年10月06日

他人を評価すること

自分が考えている自己評価と会社から与えられている給与・ポストが一致しない。自分はこんなに働いているのにたったこれだけ。あいつはろくに仕事もしていないのに俺よりたくさんもらっている。なんであんなヤツが俺の上司なんだ、絶対に俺の方が優秀なはずなのに!
 
こういった不満と葛藤を日々募らせ、我慢しながら働いている人はたくさんいる。閉塞した現代社会において、ほとんどのビジネスパーソンは給与を(あるいは会社内での役職を)自分の全人格に対する評価のように受け取ってしまう。
この春の人事異動で課長に昇格するはずだ…と、密かに期待をしていたが、その期待は裏切られ、自分ではない他の誰かが課長に昇格してしまった時には、きっとショックを受けるだろう。そして、ある者は会社に忠誠を誓い、ある者は自分を認めてくれない会社に対して不満を募らせていく。自分の実力を認めてくれない会社に対して、彼らはこう言い聞かせるだろう。「自分の能力はまだまだこんなもんじゃない。アンタ達は俺の能力の表面しか見えていない。まわりの連中は気付かないが、俺にはもっともっとすごい才能があり、それに気付かない連中は精神的に浅いだけなんだ。」
 
しかし、上記のような“不満”は、彼ひとりだけが常日頃感じているような不満ではなく、多くの社会人が(口に出さないだけで)同様に感じているものだということを忘れてはいけない。彼はまるで“自分だけがこんな酷い仕打ちを受けている、自分だけが不当に低い評価を受けている”と錯覚しているが、決してそんなことはないのだ。彼と同じように「自分の本当の能力に気付いてくれない世間」に対して憤慨しているサラリーマンは数え切れないほどいるということ。なぜ私ほどの素晴らしい人間が皿洗いなどをしなければならないのか、なぜ私ほどの優れた人間がそれに見合うだけの尊敬を受けることが出来ないのか。正常な大人なら誰しも他者から受ける評価に対しては不当に感じているだろう。
だから、我々は他者から受ける評価の低さを補正するために“まわりの連中には触れることのできない精神の深さ”を強調する。「私のこの深い才能の源泉は、あなた達には決して触れることが出来ない」と。
いやいや、実際に彼はものすごい才能の持ち主であり、おっしゃる通り彼の真の実力に気付かない会社のほうがマヌケなのかもしれない。しかし、残念ながら世間はいわゆる“才能”であるとか“精神の深さ”などというものには1円の価値も認めないだろう。その才能が確固とした“かたち”になって目の前に提示されるまでは…。
 
給与は従業員の“仕事ぶり”を査定して、それらは具体的な数値となって、それぞれに支給されるものである。しかし、その数値を決めるのが結局のところ“人間”である以上、彼の真の実力にジャストフィットした給与など査定できるはずはない。当たり前の話だが、人が人を評価することは厳密には不可能である。にもかかわらず、会社という組織は人が人を評価せずには成立しえない宿命を背負っている。
人間とは社会的な存在であり、我々は社会の中で自分を位置付けられることによって、はじめて自分を実感できるものだ。それはつまり、社会の中にあって自分と他者との間にある差異が明確化されるということである。そして、我々は他者から受ける評価には常に敏感になるものだが、それはあなた一人ではない…ということを忘れてはいけない。あなたを評価をしている彼自身(社長や上司)でさえも、世間から受ける評価に対して、常に不当に感じているものなのだ。その都度、彼らもこう言い聞かせている。「マヌケな世間は、我が社の真の実力に気付いていないだけ」
 
 
※ 自分の「才能」を褒められて嬉しくない男性は存在しない。世の中のほとんどの男性には「俺は才能があり、そこらへんのボンクラよりも優れた存在だ」という自負があるからだ。しかし、世間はまったくそのことに気付きやしない。なぜ俺ほどの才能を持った人間が、それに見合うだけの尊敬を受けることが出来ないのか!…と、彼らは常にフラストレーションを抱えている(笑)
そんなわけで、女性が意中の男性をコロッと落とす方法は「鈴木君ってすごい才能あるよね、普通の人じゃこんなこと出来ないと思う。」という一言につきる。
 
 
posted by もときち at 20:53 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2011年01月15日

仕事をサボる社員

仕事中にネットサーフィンをして遊ぶと、集中力が高まり、生産性が向上するという調査結果があるらしい。「企業は生産性が低下するからと言って、社員がYouTubeやFacebookを見たり、オンラインショッピングをするのを防ぐためのソフトに多額の費用を投じている。だが、常に生産性が低下するとは限らない」と、メルボルン大学のブレント・コーカー博士は指摘している。
ネットサーフィンというのは、たとえば『村上春樹の新作が出るらしい』と調べて、そのホームページに『村上春樹は厚揚げが好きらしい』と書かれていて、そんな情報どこから出てきたんだろう…と 『村上春樹、厚揚げ』で検索して、また別のサイトへ移動して…と、次から次へとサイトを移動して時間を過ごしてしまう行為のことである。

このような行為を防止するため、企業はWebブラウザをロックするセキュリティソフトを導入したり、あるいは社員に 『この会社では君達がパソコンでどんなサイトを閲覧したか、すべての情報がサーバーに記録されるから、如何わしいサイトなど閲覧しないように。』 と、釘をさしておく。
仕事をサボるのは事務職や開発職だけではない。上司の目の届かない外回りの仕事=営業職も同様だ。むしろ、営業職で仕事をサボったことのない人を探すほうが困難ではないか。客先にいって商談を成立させて、ちょっと疲れたからそこらの喫茶店で一息入れようというのは、そんなに悪いことには思えないし、というかその程度ならサボるうちに入らないと思うのだけれど、さすがに仕事中にゲーセンへ行ったりカラオケへ行ったりするのは問題だと思う。
で、最近はGPS搭載の携帯電話が普及してきたため、営業職にそれを持たせて 『この会社では君達が今現在どこにいるか、すべてお見通しだから、外出中に妙な場所へ出入りしたりしないように。』 と、ザミャーチンやオーウェルばりの監視社会を構築している企業まである。
どうやらインターネットのアクセス監視だけでなく、監視カメラ、ディスプレイモニタなど、ありとあらゆるシステムを駆使して、社員の働きぶりをすべて把握するつもりらしい。


しかしながら、生産性をあげたいから社員の監視を強めるというのは逆効果である。
そもそも、人間というのは仕事をサボる生き物だ。パソコン(ネットサーフィン)でサボることが出来なくなった社員は、監視カメラの映らない給湯室でおしゃべりを始めたり、あるいはパソコンにむかったまま、なんとなく「ボケーッ」として時間を過ごしてしまうし、 GPSを搭載された営業職は、さしあたりない場所で一服したりと、彼らは必ず何らかの抜け道を見つける。
そして、そのうち社員は 『いかに自分が仕事をしているか』をアピールするために、監視カメラに映る自分を意識するようになるだろう。ようするに、仕事そのものよりも 『仕事をしている自分を演じること』 のほうが重要になってしまうのだ。なにより、監視される社員は仕事に対するモチベーションも下がり、人間性が失われていってしまう。
企業は何のために社員を監視するのか?もちろんそれは「利益」をだすためだろう。ともすれば、その監視行為が本当に会社に利益をもたらすのかを冷静に考えなければ、監視システムは経営者の自己顕示欲の象徴にして終わる。

生産性が高い人というのは、サボる時はとことんサボるけれど、仕事をしているときの集中力はものすごいものだ。たとえば、彼がひとたびプログラム開発などを始めると、他の事には一切目もくれずプログラミングに没頭し、食事をするのも面倒になり、気がついたら夜中の12時だった…というくらいすごい。
 
posted by もときち at 14:49 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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