2009年05月21日

テレビとインターネット

インターネットはコンピュータ同士をつなげるものであり、それらは国籍を問わず、国境の概念がない。さらにテレビなど従来のメディアが一方通行であったのに対し、インターネットは双方向(インタラクティブ)である。これにより広告主の意識が変わり、大手テレビ局各社の広告収益は激減。テレビというビジネスモデルはいよいよ終焉を迎えた、これからはインターネットの時代だと、一部の識者たちは口を揃えて言う。
そんなわけで、テレビの終焉を告げるとき「テレビ対インターネット」という構図がしばしば持ち出されるのだけれど、そもそもこの2つのメディアって、ホントに比較できるものなのか?
広告の費用対効果として、ブログの「アクセス数」とテレビ番組の「視聴率」を比較してみせるのもおかしな話だし、ネット広告費がテレビ広告費を上回ったというそれだけで、テレビよりもインターネットの方がメディアとして優れているなんて言説は成り立たないような気がする。
 
テレビとインターネットは全く異質なメディアだ。前者には所有者がいるけれど、後者には所有者がいない。
インターネットは、自宅にパソコンさえあれば誰もが参加できる「参加自由型メディア」だけれど、テレビはメディアの所有者(テレビ局やCM制作会社)が容認した者にしか参加を許さない「入場制限型メディア」である。
テレビ局は放送枠という「スペース」を所有することができる。なぜスペースを所有することが出来るかというと、スペースが「24時間=有限」だからである。これにより、テレビ局は「スペース」に相応しい個人・法人を彼らの意思で “選択” して出演させる政治権力を持つ。
一方で、インターネットにはスペースという概念がない。いや、スペースが「無限」に存在するのだ。だから、誰もそれを所有することが出来ないし、本来なら参加してはいけないような無法者にも、入場制限をかけることができない。
 
インターネットは、個人の自己顕示欲を一番手っ取り早く実現してくれるメディアである。才能の有無に関わらず、誰もが勝手に「名前を売る」ことが許されている。新しい服を買ったことをブログで報告し、ちょっと気に食わないヤツがいれば中傷し、いかに自分が有能で価値のある人間かということを周囲に認知させることが出来る。
テレビやラジオ、出版業界といった入場制限型メディアは、そのような無法状態を許さない。ある意味でそれらは「法」によって管理された世界である。そして、僕たち消費者もその「法」を無意識のうちに信奉している。テレビなどの入場制限型メディアへ参加する個人・法人は、「法の番人」から認められ、放送枠という有限のスペースを取得した存在なのだ。
 
ネットアイドルは、どんなに売れても「ネットアイドル」のままだ。
しかし、ひとたび彼女が 「いま、売れに売れてるネットアイドル!」 なんていう特集でテレビに登場すると、僕達は彼女がなにか神の護符を賜った“特別な人間”であるかのように錯覚してしまう。
 
 
posted by もときち at 13:54 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年10月02日

仕事するのにオフィスはいらない


仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書) [新書] / 佐々木 俊尚 (著); 光文社 (刊)
かつて、サラリーマンが「社畜」と呼ばれていた時代があった。会社に人生を捧げ、自由を奪われた奴隷的な存在。毎朝、眠たい目をこすり、満員電車にゆられて出勤する退屈な日常。ところが、昨今の不景気に相俟って、非正規社員やフリーターがクローズアップされ、現在においてはその退屈な日常を手に入れること(正社員になること)こそが、理想の人生になってしまった。
企業の正社員は、人生のリスクを会社という一点に集中させている点で危うい。しかし、その中でも金融業、あるいはITベンチャーなど高度な専門性を持つ人間は、自分の能力が「正社員の賃金制度に収まりきらない」ことを熟知しているため、自ら契約社員や嘱託といった非正規雇用の道を選び、彼らは複数社の名刺のもとリスクを分散している。いまや、歴史ある大企業が倒産しても誰も驚かなくなった。会社という他人の船に乗っていては、他人の船とともに沈んでいくだけなのだ。

 
いまだに「会社員は会社にいてナンボ」と言ってはばからない管理職は、どの企業にもいます。彼らは、「社員を監視することこそが自分の業務」と変な勘違いをしていて、自分達の目の届かないところに部下が行ってしまうことを極度に恐れているのです。
ノマドワークスタイルには、会社の上司や同僚の「目」はありません。
だから仕事をさぼって「2ちゃんねる」を読んだり、友達のミクシィ日記をのぞいたりしていても、誰にも怒られません。ヘッドフォンしてユーチューブを見始めると、すっかり夢中になって、仕事はどこかへ行ってしまって…ということになってしまいます。
だから自分のアテンションをどうやってコントロールし、注意が散漫になってしまわないよう仕事に集中できる気持ちを作り出せるかどうかが、実は最も重要な課題なのです。<本書>

 
インターネットのおかげで、労働時間や勤務場所といった縛りは薄れ、我々は流動的な仕事が出来るようになった。こうなると、優秀なクリエイターを職場に1日中縛りつけ、能力の違う仲間達と同調させるよりも、彼を縛る鎖を解き放ち、その能力を十分に発揮させたほうが、社会のためにも彼自身のためにもなる。
21世紀のビジネススタイルは、能力のある/専門性の高い人間が、自分自身をITにより武装化し、ノマド(遊牧民)、すなわちフリーエージェントとして活躍する時代になるだろう。
 
 
いくつものベンチャー企業を経験してきた彼は、個人と組織は対等な関係だと考えています。その考えは、まだ20代の会社員だったころも、執行役員になってからも変わりませんでした。「いつでも会社を辞めてやるよ」と思っていて、でも会社から「辞めないでほしい」と考えられているような会社員、そんな会社員であるべきだと、新野さんはずっと考えてきたのです。これはまさにノマドワークスタイルそのものと言ってよいでしょう。
とはいえ、そうなるためには自分自身の能力を磨かなければなりません。いつフリーになっても大丈夫という裏付けがなければ、社員と組織の関係は対等にはなっていきません。<同>

 
自分の購入した洋服やコスメなどを YOU TUBE で紹介する商売をしているブレア・ファウラーさんは、まだ16歳の女性である。商品を魅力的に紹介できるプレゼン能力さえあれば、普通の女子高生が彼女のように一躍有名人になることも夢ではない。
「IT」はクリエイターを拘束する「会社」という鎖を断ち切る武器なのだ。
 
 
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2009年12月20日

FREE


フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 [ハードカバー] / クリス・アンダーソン (著); 小林弘人, 小林弘人 (監修); 高橋則明 (翻訳); 日本放送出版協会 (刊)
プラハにある売春宿「ビッグ・シスター」は、売春婦と無料でセックスすることが出来るという、夢のようなサービスを提供していることで知られる。
 
無料の風俗というのは世界初の試みだが、実はその売春宿、個室に何十台ものカメラが設置されている。男性客は自分の行為が撮影されることを承諾したうえで、「ビッグ・シスター」を利用しなければならないのだ。
そして、撮影された動画はインターネットで配信される。もちろん、動画閲覧は有料である。

 
グーグルはアメリカでもっとも儲かっている企業のひとつだし、リナックスの生態系は300億ドル産業だ。ここにフリー(無料)のパラドックスがある。料金をとらないことで、大金を稼いでいる人々がいるのだ。すべてとは言わなくても、多くのものがタダになっていて、無料か無料同然のものから一国規模の経済ができているのだ。それはどのようにして起こり、どこへ行こうとしているのだろうか。これが本書の中心となる疑問だ。
この世にタダのランチはない。実際にランチを食べた者がお金を払わないとすれば、それは結局、その人にタダでランチを提供しようとする誰かが払っているにすぎないのだ。
人々はときどき、こうして間接的に商品の代金を支払っている。フリーペーパーは広告収入で運営されていて、それは広告主である小売業者のマーケティング予算から出される。スーパーマーケットの無料駐車場は、商品から利益がまかなわれているし、無料サンプルのコストは、その商品を買う客によってカバーされている。<本書>

 
あなたの身近な問題。
「アメブロ」や「FC2ブログ」といったブログサービスを僕達に無料提供することで、それらを運営している会社には、いったいどのようなメリットがあるのだろう。
答え。無料ブログには(独自ドメインでない限り)必ずと言っていいほど「広告」が貼り付けられている。僕達の書いたブログに第三者が訪問して、彼らが広告をクリックした場合、対価報酬がブログ運営元の会社に支払われるような仕組みになっているのだ。だから、ブログサービスを提供している会社は、もっとももっと自社のブログで記事を書いてほしいと願っている。記事が増えれば増えた分だけ、検索エンジンにヒットして、閲覧−広告クリックの可能性が増えるのだから。
 
世界経済において、これまでにないほど知的財産の価値が重んじられています。昔に比べて共産主義者の数は減りましたが、ミュージシャンや映画製作者やソフトウェア制作者のやる気を失わせようとする新しい今日的共産主義者が、さまざまな姿であらわれているのです。<ビル・ゲイツ>

自由と無料にまたがる特許権や著作権などの知的財産権を、フリーが攻撃していると言う意見がある。それを唱える人は次のように考える。人々は報酬がなければものを捜索しようとしない、と。

 
クリエイターが、世の中をアッと驚かす新製品や新技術を開発するのは、実は「お金」のためなんかじゃない。彼らは、自分の創作した作品が人々を驚かすことに、何にもかえがたい喜びを感じる生き物なのだ。
そして、彼らはその先に在る名声を(無意識にも)求めている。この素晴らしい作品を世に送り出したのは「この俺」だということを、あなたがたに知っておいてほしい、と。
いや、俺は名声なんて求めていない。創作することが楽しいから創作しているだけだ。…本当に?
創作することが楽しいだけなら、なぜそれを世に送り出す必要があるのだろう。記事を書くことが楽しいだけなら、日記帳やチラシの裏に書いて、押し入れにしまっておけばよいではないか。わざわざブログとして公開しているのは「自分を知って欲しい」という欲求以外のなにものでもないのだ。
 
 
posted by もときち at 01:29 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月18日

ツイッター入門

Though it is a little too late :)
話題の『ツイッター』を始めてみました。

Twitterとは、140文字以内の短い発言(つぶやき)を入力して、みんなで共有するサービスです。何かに気づいた時や思いついた時、友人に自分がいまどこにいるか、何をしているか知らせたい時にさっと書き込むことができます。これだけでは単に独り言をつぶやくだけのサービスですが、Twitterには「フォロー」という他のユーザーを友達のように登録する機能があります。お店のタイムセールや時間限定イベントなどのお得な情報をくれるものなど、自分の友達だけではなく様々な情報がそのアカウントをフォローするだけでどんどん飛び込んできます。<公式サイトより抜粋>


フォロワー(自分の発言をフォローしてくれる人)の数が多ければ、新たな検索ツールにもなりえるサービスみたいだ。たとえばフォロワーがたくさんいる状態で「いま吉祥寺のあたりにいるんだけど、美味しい店しらない?」と書くと何人もの人から返事がもらえるので、生身の人間がリアルタイムで答えてくれる検索エンジン的な活用が出来るのだ。また、ニュース速報(たとえば地震警報)よりもツイッターの情報伝達速度のほうが早いので、海外ではツイッターを利用した速報システムまであるらしい。

とはいえ、これはフォロワーがたくさんいて初めて成立する話。
有名人ならほうっておいても被フォロー数は増えていくけれど、僕達一般人はそうはいかないので、自分の被フォロー数を増やすときは 「#followme」 というタグを使って募集告知したりする。 なんだかホームページの相互リンクみたいなシステムである。(相互フォローなんていう呼び名もある)
普通に生活していたら話す機会が持てないような著名人に 「@+ID」 で気軽に話しかけることが出来るのもツイッターの良い点。しかも、僕達一般人からの質問に(ホント大変そうだけど)マメに返答してくれる政治家・著名人が結構多かったりするのだ。(掲示板やチャットとは違うから、著名人ツイッターがブログのコメント欄のように“荒らされる”心配もあまりない)



…しかしあれだな。
この人の発言をフォローしたい!という著名人があまりいない (ボソッ)
 

posted by もときち at 12:10 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年08月20日

電子書籍の衝撃


電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書) [新書] / 佐々木 俊尚 (著); ディスカヴァー・トゥエンティワン (刊)
自分自身の視力的な問題もあって、いまいち電子書籍って好きになれなかったのだけれど、そうも言ってられなさそうだ。書籍、漫画本の利点はどこにでも携帯出来て、いつでも好きな時に読めるという点だった。それがデスクトップやノートパソコンでは実現不可能だったわけですが「ipad」であればなんら問題にならない。
もし、漫画コミックスの電子書籍化が実現すれば、部屋にワンピース全巻を収納するスペースがないなんていう、個人的な問題も解消されてしまう。好きな漫画を好きなだけ携帯して、海外旅行へも行けるようになるかもしれないのだ。


これまでだったら欲しい本は書店に買いに行かなければいけませんでした。都心の大きな書店ならともかくも、地方の書店だと自分の欲しい本が置いてあるとは限りません。古い本だと絶版になっていることも多いし、そもそも書店にまで足を運ぶという手間は省けないのです。アマゾンのオンライン書店なら配達してもらえますが、日にちはかかるし、品切れになってることも多い。
Twitterやブログ、SNSなどでなにかの本が話題になると、すぐさま多くの読者がアマゾンに殺到し、その本を購入しようとします。こうしたときの「瞬間風速」はかなりのスピードで、アマゾンの在庫があっという間にはけてしまって品切れ状態になってしまうというのはよくあることです。そうなると出版社から取次を経由してアマゾンに在庫が送り込まれるまでの数日間から時には一週間以上、その本は手に入りません。いくら便利なネットの書店であっても、こうした機会損失は避けられないのです。しかし、電子ブック化していけば、こうした流通の問題の多くは解決してしまいます。<電子書籍の衝撃:佐々木俊尚>


さらに、僕達読者が入手できなかった絶版本(図書館などへ行かなければ閲覧できなかった貴重なもの)なども、電子書籍化によってアクセスが容易になるかもしれない。読む人がいようがいまいが、たくさん売れようが売れまいが、そんなものは関係ない。電子書籍化がすすめば、紙媒体で出版しても商売にならないと切り捨てられていた幻の本に、再び日の目があたるようになるかもしれないのだ。

また、電子書籍化は「誰でも書き手の時代」を到来させるかもしれない。今までは、作家志望の青年や普通の個人が自由に本を出版できるような状況ではなかった。自分自身で印刷所に依頼して自費出版することは可能かもしれないけれど、その後、どうすれば自著が本屋の(あるいは Amazon の)書棚に陳列されるようになるのか、流通に関しても分からないことだらけ。ようするに「本を出版する」というビジネスは出版社によって独占されていたわけだ。
しかし、電子書籍の時代になると、出版ビジネスは我々素人にとって身近なものになる。本書には自分の書いた電子書籍をオンライン書店に流通させる方法まで詳しく紹介されている。


「アマゾン・デジタル・テキスト・プラットフォーム」というサービスです。長い名前なので、今後はこれをアマゾンDTPと呼びましょう。
アマゾンDTPは自費出版ではありません。自費出版はあくまでも「自費」で「出版」すること。紙の本の時代には、紙代や印刷代、流通コストなど本を出すためには最低でも数十万円の多大な出費が必要で、これを書き手の側が負担するから自費出版と呼んでいたわけです。しかしアマゾンDTPには負担コストが存在しないため、「自費」は必要ありません。
このような電子書籍のセルフパブリッシングが当たり前になってくると、その先にはどのような世界が待ち受けているのでしょうか。たとえばマニアックなプロの純文学作家よりも、アマチュアのブロガーがセルフパブリッシングで出した本の方が売れるという事態は、十分に予測できることです。<同>

 
posted by もときち at 17:29 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2011年01月25日

ネットビジネスの現在

90年代後半にEコマース、すなわち電子商取引が生まれてきたとき『中間業者は死ぬだろう』ということが予見された。ようするにインターネットが各家庭に浸透することによって、生産者と消費者が直接売買をする直販のビジネスモデルが主流になっていくということである。
確かに、ネット革命が予見した通り、卸売りなどの古き中間業者は淘汰された。しかし、それと同時にインターネットは市場に『新しいタイプの中間業者』を生み出したのだ。
Eコマースによって、消費者である我々と生産者である出版社が直接取引するようなビジネスモデルは実現しなかった。新しいタイプの中間業者の代表格ともいえる『アマゾン』は、リアル書店では実現不可能なほどの在庫、さらには中古の書籍も揃え、他の読者が書いたレビューも参考にできる、まったく新しいカタチの購買代理ビジネスを実現させた。
市場には『アフィリエイター』と呼ばれる中間業者も大勢いる。
彼らは自分のウェブサイトで生産者(企業)の商品をとりあげ紹介する、これもまた新しいタイプの購買代理モデルであった。生産者(企業)が自社製品をアピールするのには限界がある。 TVコマーシャルや雑誌広告で宣伝しても、それはあくまで『生産者視点』の独りよがりのものにすぎないが、そこに第三者である『アフィリエイター』が介入すると事情は異なってくる。彼らは生産者とは何の関係もない、消費者の立場にたって商品をウェブサイトで紹介するわけだ。企業のゴリ押し広告よりも、第三者の評価のほうが他の消費者にとっては信頼できる情報であるだろう。
そして、これら購買代理のビジネスモデルが行く着く先は、いわゆる『ポータル化』という現象である。
アマゾンを見れば分かる通り、かのサイトは書籍以外にもゲームや音楽、家電製品や食品まで、ありとあらゆる商品を販売する『ポータルサイト』へと進化していった。
 
 
インターネットはビジネスモデルだけでなく、そこに関わる人々の価値までも変えようとしている。
インターネットがない頃は、たくさんの本を読み、様々な分野の専門知識を知っている、いわゆる『知識人』と呼ばれる人達は、企業のみならずあらゆる業界において重宝されたものだ。しかし、現在においてはその程度の知識はインターネットを使えば、誰でも容易に手に入れることが出来てしまう。
ネット社会では『知識』の価値が急速に失われていくのである。ひとたび市場に知識が出まわれば、それは簡単にコピーされ、コピーされた知識はその経済的価値を失ってしまう。知識に関していえば、本物と複製品のあいだには何の違いもないからである。大量の本を読み、苦労して身につけた知識もすぐに陳腐化してしまうだろう。
ようするに、これからの資本主義社会においては知識労働者、すなわちプログラマーやシステムエンジニアといった『専門的な知識』を武器とする職種の立場が危うくなっていくのである。そして、これからの企業に必要とされる人材は『専門的な知識』を持った人ではなく、言葉では言い表せないような『能力』を持った人たち。彼らは一般的に『クリエイター』あるいは『アーティスト』などと呼ばれ、知識では補うことのできない『モノを創造する能力』を持った人材である。
たとえば、ひとりの社員が開発した技術については、企業はその『特許』を法律的に所有することはできるが、その社員が転職してしまえば、彼が頭の中に所有している『アイデア』や『創造性』といった財産を手放すことになってしまう。企業は知識を所有できても創造力は所有できないということだ。
お金で買える『知識』よりも、お金では買えない個人の『アイデア』や『創造力』のほうが、はるかに高い価値を持つようになる。それが、これからのネット社会の宿命である。そして、彼らのような能力をもった個人は、企業に従属することなく、自ら企業を興す道を選ぶだろう。 
 
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2012年03月01日

Facebook入門

なにげに『 Facebook 』が面白い。もう知らない人なんていないだろうけれど、一応説明しておくか。『Facebook』は、人同士の交流をサポートしてくれるコミュニティサイトのことで、いわゆる『SNS』というものだ。日本でも『mixi』やら『モバゲー』など、似たようなサービスはいくつかあるが、Facebookは実名を公開したうえで、交流することを原則としているので、日本発のSNSと比べると、よりリアル=現実生活に接近したサービスといえなくもない。
実名が公開されるわけだから、友人や同僚との交流に便利なことはもちろん、学生時代の同級生、以前勤めていた勤務先などの人とも再会できる。実際に、僕も中学・高校時代の同級生数名と再会できた…。
確かに「実名公開」というとプライバシーに関して不安を覚える人もいるだろうけれど、友人以外に自分のページを公開しないよう設定することもできるので、そのへんはどうとでもなるだろう。以下が、Facebookでできることの概要である。
 
 
・ 本名や学歴などから自分の友人を見つけて交流することができる。
・ ツイッター感覚で、気軽に自分の近況やつぶやきを投稿することができる。
・ 投稿した内容に対して、友人が 『 いいね!』とコメントをくれる。
・ 自分だけの写真&動画アルバムを作ることができる(友人に見せることもできる)
・ ブログのように長文(論文的なもの)もノート機能で投稿することができる。
・ メールやチャットなどで個人的なやりとりもできる。

 
こんなところかな。
極端にいうと、ツイッターやブログやWEBアルバムなど、最近流行の情報発信ツールの“いいとこどり”をしたサービスみたいなもんだ。ぶっちゃけ『Facebook』があれば、ツイッターやブログなんざ、お払い箱になるんじゃないか?とすら思える。
実は、僕自身は数年前にFacebookのアカウントだけは登録しておいたのだが、いまいち面白さがわからなくて、今までずっと放置していた。で、最近になって友人に勧められて再起動したわけだが、昔の同級生などとも再会できたりと、なんとなくだけど、面白さがわかってきた。

しかし、問題点もある。 僕自身は、いったい何を投稿していいかわからない。
たとえば、このブログみたいに、長文で哲学の記事やら経済の記事を投稿したところで、なにかうすら寒いような気がする。だから、僕はFacebookでそういった堅苦しい話をするのは控えている。堅苦しい輩は、Facebookの世界においては 『ウザイね!』なのだ。
多くのユーザーは、今日食べた料理、今日読んだ本、旅の思い出など、自分の近況を投稿していくのだけれど…、たぶんそれが適した使い方なんだと思う。他人が食べた料理に対して『それ、いいね!』とコメントするのは、本心だから。
ともあれ、とくに投稿する話題も持たぬ僕は、Facebookで外国人の友達とチャットばかりしている。これがなかなか英語の勉強になるのだが…、間違った使い方か?
 
 
posted by もときち at 14:12 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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