2009年05月02日

知的虚栄心としての本

我々は知識を身につけると、至るところでそれをひけらかし“自分より下の人間”を見下すことに快感を覚えるようになってしまう。私はこれを理解でき、他人には理解できない。だから他人は私よりも劣っている存在だ。彼らは「知的な私」と「無知な他者」の間に境界線をひき「俺はお前らのような馬鹿とは違うんだぞ」という自己優位性を主張をするようになる。
このような独善に陥らないためには、自分自身を否定する視点が必要不可欠である。あるアメリカの作家は「第一級の知性とは2つの相反する性質を同時に機能させていくことだ」と書いたが、ようするに、自分の愚かさを他人から指摘される前に、自分自身で発見できる知性が健全だということ。
もちろん、「他人の知らないことを知っている」ということが、ある種のステータスになっているのは確かであり、そして、それらのステータスを手軽に構築する方法が「本」である。
 
本は人間の内面を映し出す。本との付き合いは、まるで人と人との付き合いのようであり、当然そこには「好き嫌い」もある。多くの人から支持を集める本、限られた人しか付き合うことのできない本、女性にしか理解できない本もあれば、戦争を経験した世代にしか理解できない本もある。
誰でも一度くらいは「どういう本が好きなの?」といった質問をされた経験があると思う。
そんな時、たとえばあなたが会社の面接で“そこそこ仕事の出来る女性”だというアピールをしたい時は「私は勝間和代を読んでいます」と言えばいいし、まわりの若者とは一味違った嗜好をアピールをしたいのなら「僕の好きな作家はニーチェ、バタイユです」と言えばいい。
逆に「僕の愛読書は三毛猫ホームズです」なんて発言をするのは「僕は読書をしたことがありません」と、自ら宣言するようなものである。まあ、それはそれで相手を油断させることが出来てお得かもしれないけれど…。(それで面接に落ちたら本末転倒ですね)
 
不思議なのは、何百万円もするブランド品を身につけた、外見的虚栄心の旺盛な人に限って、その内面を象徴する本や音楽については、まったくの無防備、すっぴん状態だったりするという現象である。
そのような人達に「あなたの好きな本は何ですか?」と聞くと「ハリポタ」とか「セカチュー」といった答えが返ってきてしまう。恥じるところが少しもないような、まっすぐな眼差しで。
別格であること、自分が一般より高い水準であることに愉悦を感じる彼らが、なぜ本や音楽に関しては「みんなと同じ」であることに満足しているのだろう。
 
もちろんそれは悪いことではないし、それこそ冒頭に掲げたように、難解な哲学書を読むことが人間的に優れているということではない。読書が人と人との付き合いであるなら、結局のところ、それぞれ好きな本を読めばいいという一言につきるだろう。しかし、それでも世の中には、内的虚栄心の無防備な“大衆”を見下している「知識の人」が大勢いるのだ。お茶の間の良心を気取っている評論家も、腹の底では“自分が無知な大衆よりも上の存在”だと思っているのだから。
 
 
posted by もときち at 18:26 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月19日

病的な精神を育むドストエフスキー

 
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / ドストエフスキー (著); 原 卓也 (翻訳); 新潮社 (刊)初めてドストエフスキーの小説に出会ったのは、たしか僕が17歳の時だ。
ある文芸評論家が「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟こそ、近代文学の最高傑作だ」みたいなことを言っていて、「そこまで言うのだから…」という気持ちで読み始めたのだけれど、第一編の「ある家族の歴史:三男アリョーシャ」まで読んだ時点で、僕はこの作家の虜になってしまった。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは疑いの余地なく、ロシア文学が生み出した天才の1人である。様々な評価もあるけれど、彼の小説の魅力はそこに描かれた個性的な人物像にあると言ってもいいだろう。

 
ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの小説をもって登場人物がそれぞれ独立した思想(声)をもち、それらの主張は互いに溶け合うことなく壮大な多声楽(ポリフォニー)を奏でているようだと論じたが、そのポリフォニックな要素が最も如実に再現されているのは「カラマーゾフの兄弟」で、ドミートリィ、イワン、アリョーシャといった兄弟間の交錯が、神秘的で滑稽な火花を散らすその様は、まるで壮大なクラシック音楽を聴いているかのようだ。「カラマーゾフの兄弟」発表から100年以上を経た今、ようやく現代が彼の小説に追いついた感すらある。
 
「カラマーゾフの兄弟」でなにかと話題になるのは「大審問官」の章だけれど、僕が個人的に好きなのは手前の「反逆」の章だ。「反逆」は二男のイワンが弟のアリョーシャに 「なぜ世の中はこんなにも苦しみが溢れているのか」といった独自の思想を披露する、作中で最も迫力溢れるエピソードでもある。
 
なあ、アリョーシャ。俺は見てみたいんだよ。
やがて鹿がライオンのわきにねそべるようになる日や、斬り殺された人間が起き上がって、自分を殺したやつと抱擁するところを、この目で見てみたいんだよ。どうして世界はこんなことになってしまったのか―。
…全ての人間が苦しまなくてはいけないとしても、子供たちにいったい何の関係があるっていうんだ。罪の連帯性なんて子供にあるものか。もし、子供も父親のあらゆる悪行に対して父親と連帯責任があると言うのなら、そんなものを俺は認めないね。<カラマーゾフの兄弟:ドストエフスキー>

 
ドストエフスキーは「人間」を描いた。
血の固まり、憎悪の固まり。人間は醜く、救いようがない。殺人、泥棒、レイプ、幼児虐待、自分を認めない世間に対して呪詛の言葉を吐き続ける引きこもりの青年。自己の犯罪性を文学作品として表現してしまった作家、それがフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーである。そして「カラマーゾフの兄弟」は20世紀のあらゆる作家、思想家に絶大な影響を与え、今なお読まれ続けている近代文学の最高傑作だ。そして、これは大人向けの文学作品ではなく、若者向けのエンターテインメントだということを強調しておこう。「カラマーゾフの兄弟」は、10代の若者こそ読むべき作品である。
 
 
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2009年12月10日

哲学のすすめ

 
必読書150 [単行本] / 柄谷 行人, 岡崎 乾二郎, 島田 雅彦, 渡部 直己, 浅田 彰, 奥泉 光, スガ 秀実 (著); 太田出版 (刊)
大学時代、学校の授業があまりにもつまらないので、講義をさぼって家で読書ばかりしていたのですが、当時の僕は、毎月「群像」やら「文學界」やら文藝誌を欠かさず読んでいた、いわゆる「文学おたく」でして、あの頃は(自分で言うのもなんだけど)一番頭に脂がのっていた時期だったと思います。

僕の「OS」は、そのほとんどが大学時代の読書習慣により構築されたようなもので、そういう意味で、つまらない講義を提供してくれた大学の講師には感謝しなくてはいけないのかもしれませんね。


どこかの本に書かれていたのですが「OS」という表現は言い得て妙です。ものすごいプログラミング技術を持ってるのに、なんだか要領の悪い人とか、悪くいえば「お勉強はできるけど頭が悪い」とか「一流大学を出ているのに仕事が出来ない」といった人達がいますね。
彼らが体現しているのは、我々が学校で習う数学や英語、あるいはプログラミングの技術といったものは、結局のところ「アプリケーションソフト」に過ぎないということです。どんなに技術を高めたところで、OSがなければアプリケーションは起動しませんよね。小手先の技術ばかりが研磨されていても、肝心の「ものの考え方」が育まれていないと本質を捉えることはできないということです。何か物事を解決しようとするのなら、あるいは何か新しい作品を創作しようというのなら、そのバックボーンとなる「ものの考え方」を身につけていなくてはいけない。それがOSです。

さてさて、僕のバックボーンはほとんどが西洋哲学と西洋文学です。現在の僕では読めるかどうか自信がありませんが、一時はアンチ・オイディプスや千のプラトーなんかも熱心に読んでいたくらいの哲学かぶれで、哲学・文学の水先案内人といえば(当時は)文壇で活躍していた柄谷行人や浅田彰、福田和也といった批評家でした。
なぜこんな話をするかというと、イギリスに留学している僕の弟のことです。最近弟も文学や哲学に興味を持ったようで、彼がイギリスへ旅立つ前に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を持たせてあげたのですが、案の定“ハマった”らしい。ところが哲学となると、いったいどこからどう手をつけていいのか分からずにいる。可哀想に、彼は新潮文庫から出ている「まんがで読破シリーズ:マルクスの資本論(笑)」から始めてしまったというのです。

僕も学生時代は哲学という難解なジャンルにどうコミットしていったらいいのか悩んでいましたが、そんな時は良いガイド、すなわち「評論家」に出会うことが一番手っ取り早いんですね。一人のお気に入り作家を探すよりも、一人の信頼できる批評家、自分と嗜好の似た評論家を探した方がいいということです。
そんなわけで、この「必読書150」は、柄谷行人、浅田彰など著名な評論家が集結しているので、僕も学生時代に随分とお世話になりました。
カント、ヘーゲル、ハイデガー、最近のものではフーコー、ドゥルーズ、ラカンと容赦ない名前が連なりますが、自分のOSをバージョンアップさせたい方には必読な古典がラインナップされています。

われわれは今、教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうために「教養」がいるのだ。カントもマルクスもフロイトも読んでいないで、何ができるというのか。わかりきった話である。われわれはサルにもわかる本を出すことはしない。単に、このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである、というだけである。<柄谷行人:本書より>

posted by もときち at 09:34 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月28日

コード化=超コード化=脱コード化


構造と力―記号論を超えて [単行本] / 浅田 彰 (著); 勁草書房 (刊)
僕が生まれた時代、1980年代初頭に「ニューアカデミズム」という一大ムーブメントがあった。1983年当時、京都大学の助手であった浅田彰が著したポスト構造主義に関する専門書『構造と力』が、哲学書としては異例のベストセラーとなり、彼の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて「ニューアカデミズム」と名付けたのである。
『構造と力』では、フーコーやラカン、レヴィ=ストロースといった難解な現代思想が、まるでチャート式参考書のように、これ以上ないくらいにわかりやすく解説されている。本書のクライマックスは、なんといってもドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から抽出した“コード化”のくだりだろう。


言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇としてとらえねばならない。それは、錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである。
…さて、文化が多少とも安定した構造として存立するためには、この垂直の力が社会全体に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することが出来るだろう。以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、 (1) コード化−原始共同体、(2) 超コード化−古代専制国家、(3) 脱コード化−近代資本制の三段階の定式化を行うことにする。<構造と力:浅田彰>


我々人間の欲動が制御され、そこに諸々の文化が形成されていく過程には「コード化、超コード化、脱コード化」という3つの段階がある。
たとえば、動物は本能によってあらかじめ欲望の方向性がどこに向かうべきかを決定づけられているが、人間は違う。人間は自己のエネルギーをどこに向ければよいのかわからない状態で生まれてくる。
これは、ドゥルーズ=ガタリの欲望史観に大きな影響を与えたラカンの考え方だが、このような拡散する人間の欲動を一定方向に導くこと、それが「コード化」である。


万古の昔から所定のルール通りに器械的な回転を続ける一般交換の円環。これこそレヴィ・ストロースの言う冷たい社会を支えるメカニズムである。我々は、しかし、モースにあってレヴィ=ストロースが無視している側面に注目したい。それは微視的なダイナミックスの分析とも言うべき側面である。
モースは、贈物には特殊な力が宿っていて受贈者に返礼を強いるのだという思考形式をとり出し、何度も問題にしている。実際、はじめから閉じた円環をふかんするのではなく、あくまでも一方的な行為としてのひとつの贈与に注目してみよう。すると、この贈与が受贈者をいわば債務者の地位に落とすことがわかる。
…このようにして力は社会の全表面に拡がり、ひとりひとりにルール通りの行動を課していく。本能による規制を失ってありとあらゆる方向へ走り出そうとしていた欲望の流れに対して、コード化が行われるのである。<同>


しかし、歴史上において次に「専制君主機械」と呼ばれるシステムが登場する。
専制君主機械は古代国家、すなわち原始共同体に根付いたコードを一挙に取り払い、一切の剰余価値は「王」に帰属し、次に「民」に贈与されるものだという図式を作り上げる。つまり、民は王に対して永遠の負債を負うことになるわけだ。これが「超コード化」、すなわち「王」を頂点とする秩序によって社会の安定が保たれるシステムである。


重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制するというこの新しい体制のメカニズムを「超コード化」と呼ぶことが出来るだろう。さて、このメカニズムはあの力をどのように作動させているのだろうか。ここで我々は、各人が絶対的債権者としての王に対して無限の負債を負うという構図を見出すことができる。今や、王こそがはるか高みからピラミッド全体を吊り支えてくれる原点となり、終には各人の存在そのものが王の賜物であるとされるにいたるからである。何としても埋めようのないこの負債がシステム全体を金縛りにして安定させる。これこそ超コード化のメカニズムの働きである。<同>


そして今、我々が生きる近代資本制の社会は「脱コード化」と呼ばれる時代にある。ここでは既に古代専制国家の「王」のような絶対的債権者は存在しない。では、この脱コード化の社会において秩序を生み出すのはいったい何者であるのか? それは「貨幣」である。
超コード化の社会はピラミッドの頂点に「王」が君臨し、円錐型の秩序を形成していた。一方、脱コード化の社会においてはピラミッドの頂点に君臨するのは「貨幣」ではない。貨幣は「頂点」と「世俗」の間をぐるぐると、めまぐるしく回転運動を続ける存在である。


貨幣はたえず再投下されて商品に化身し、売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり、神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字通り死に金にすぎないのである。
…注目すべきは、こうした運動への誘導が、超越的・絶対的な中心の媒介によってではなく、あくまでも内在的・相対的な形で行われるということだ。各人は自分に先行する者のうち手近なひとりを媒介として選ぶことが出来る。それをモデルかつ障害物として追いつき追いこそうとすることが、彼を自然に競争過程へと導いていく。そして、媒介を追いこしてしまえば、今度は自分が媒介とされる番というわけだ。<同>


もちろん「手近な媒介」というのは、生まれた子供が最初に追いこそうとすべき存在、すなわち「父親」である。親の役割は、脱コード化の社会における競争過程への第一の誘導装置なのだ。しかし、若者はいずれ親を追いこし、新たなる媒介を発見する。そしてまた彼は際限なき競争に駆り立てられるだろう。一流大学に入り、一流企業に入り、課長になれば次は部長に、部長になれば次は取締役に…。回転する回し車のなかで走り続けるネズミのように、もっと多くの貨幣を、もっと高い理想を追い求めようとするのだけれど、どんなに多くのものを手に入れても我々の欲望が満たされることはない。それが現代人の姿である。

posted by もときち at 10:29 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月22日

流行のニーチェ

 
道徳の系譜 (岩波文庫) [文庫] / ニーチェ (著); Friedrich Nietzsche (原著); 木場 深定 (翻訳); 岩波書店 (刊)書店で『超訳 ニーチェの言葉』という本がベストセラーになっているようです。僕は本書を読んでいないのでなんとも言えませんが、確かにニーチェ独特のアフォリズムって、カッコよくて、我々を惹きつけるものがあります。(アフォリズムというのは「箴言」とか訳されていて、短い文章の中に鋭い指摘を含んだような表現のことをいいます。)
ニーチェの著書で広く読まれているのは「道徳の系譜」ですね。人間の「良さ」とは何か?いや、そもそも「良い」人間とは、どういうものなのか。「良い」人生とはどういうものなのか。「良い」行いとはどういうものなのか。本書にはニーチェの「善悪」についての考え方が記されています。


「良い」という判断は、「良いこと」を示される人々の側から生じるものではないのだ!却って「良い」のは「良い人間」自身であった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位な人々、高邁な人々が、自分たち自身、および自分達の行為を「良い」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑しいもの、賤民的なものに対置したのだ。<道徳の系譜:ニーチェ>


そもそも「良い」という言葉は利己的な判断であったのです。力が強い、身分が高い、権力があるといった「強者」が自身に対して使う言葉だった。しかし、それを弱者の立場であったユダヤ人が、高貴なローマ人に復讐するために価値転倒を行ってしまい、今では「自らをかえりみず、他人のために何かしてあげること」が「良いこと」になってしまったというわけです。
これをニーチェは、弱者であるユダヤ人達が、現実の権力を持つ貴族階級、ローマ人に対する卑屈な恨み=ルサンチマンによるものだと言います。たとえばキリスト教は「貧しい者こそ幸いである」と説きますが、これは富や権力などを目指す人生よりも、もっと人間として大事な生き方があるだろうということを言っているのです。しかし、実際には全ての人間が貧富の差がなく、むしろ裕福であった方が良いですよね。キリスト教はこの価値観を大胆に転換してしまった。なぜ、このような価値転換が起こるのかというと、弱者の価値は、常に強者の価値の反動として生じるからなのです。

あのユダヤ人達こそは、おそるべき整合性を持って貴族的価値方程式に対する転倒を敢行し、最も深刻な憎悪の歯軋りをしながら、この転倒を固持したのだ。曰く「惨めなるものが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ幸福はある。」 …諸君は誰がこのユダヤ人的価値転倒の遺産を作ったのか知っている。<同>


ユダヤ人に対する攻撃的な言辞という意味で、ニーチェをナチズムと結び付けて考える人も多くいますね。たとえば、ヒトラーはニーチェ哲学の実践者であるとも言われているのです。たしかに、ニーチェの著作にはヒトラーと正反対の思想傾向も見受けられますが、それでも、彼が「ヒトラー的なもの」から完全に逃れている崇高な哲学者だという見解には無理があるでしょう。

posted by もときち at 11:52 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年03月24日

ヒトラーの手法


わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) [文庫] / アドルフ・ヒトラー (著); 平野 一郎, 将積 茂 (翻訳); 角川書店 (刊)1885年にアロイス・ヒトラーは三度目の妻クララ・ペルツルを迎え、2人の間にアドルフ・ヒトラーが誕生。幼少時のアドルフは、クララによく似ていると言われ、深い愛情を持って何不自由なく育っていきました。

しかし、ヒトラーの学生生活は落第続きでした。
ウィーンの美術学校に不合格。当時の彼は肌が青白く、ひどく痩せこけて、病的な面持ちの少年だったといいます。ヒトラーが政治活動に参加するのは、それから10年後、第一次世界大戦の頃からです。


さて、前回の記事でナチズムのことが出たので、ナチズム関連でヒトラーの『マイン・カンプ(わが闘争)』という著書を紹介します。本書の内容は事実に反する虚飾にまみれており、しかしながらヒトラーの幼稚を映し出す鏡として、現在も貴重な資料として扱われています。もちろん「わが闘争」の最も大きなテーマは政治とユダヤ人排撃です。
本書はナチス時代にはたいそう読まれていたそうで、ドイツではある種のバイブルみたいな存在だったのですが、驚くべきは、本書にヒトラーの“やり口”が惜しげもなく披露されていることです。曰く、決起集会などは夕方以降にやったほうがいい、夜になると人間は昼間に持っている理性や秩序がなくなって、非常に動かしやすいからだ…などなど。
確かに、我々人間は夜間になると開放的になるというか、ちょっとハメを外してしまうようなところがありますね。ヒトラーはこのような人間の習性を熟知していたのですが、普通はそういうことを知っていても黙ってこっそりと実践するものです。しかし、彼は敢えて読者にそれをさらけ出す。このようにヒトラーの手法がほとんど書かれている本が広く読まれていたわけだから、大衆がヒトラーに騙されていたとは一概には言えないはずです。だって、大衆はヒトラーの詐術をわかっているうえで、彼を支持しているのだから。

こういった手法はマキャベリの『君主論』なんかにもよく出てきます。ようするに、自分の手の内を全部さらけ出す事によって、逆に相手を信用させてしまおうということです。自分は貴方達を騙していますよ、利用しますよ…と、あらかじめ宣言することにより、かえって彼は「誠実」とみなされ、他者からの信用を勝ち取ってしまう。
露悪主義なども同様。「自分は悪いヤツだ」ということを必死に宣伝する人がいますね。
もちろん、ただ単に悪役のほうがカッコいいというのもあるけれど、それ以上に彼らは「偽善」に対する憎しみが非常に深い。みんな建前で「善人のフリ」をしているけれど、本当は自分のことしか考えてない。連中は偽善者だ。だから、俺は悪人になる。そうすることで露悪主義は逆に信用を勝ち取ろうという詐術を利用しているのです。
夏目漱石の『三四郎』に、現在の日本人は偽善を嫌うあまり露悪に向かっているという指摘があります。
日本では 「本音で言って何が悪い? 心にもない善行をすることより正直であるほうが大事なんだ。」という気分がとても強い。しかし、露悪主義というのは、善を目指すことをやめた姿を皆で共有して安心してしまってる、ある意味でグロテスクな集団です。

posted by もときち at 16:23 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2010年11月20日

マルクス入門


資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) [文庫] / マルクス (著); エンゲルス (編さん); 向坂 逸郎 (翻訳); 岩波書店 (刊)一昔前までマルクスの『資本論』は、アダム・スミスの『国富論』とともに、経済学部生の必読書だったらしいが、今ではマルクスを原典で読む学生はほとんど消滅してしまったという。だから、かつては常識であったマルクス経済学のイロハを知らない学生が増えているらしい。僕自身も『資本論』を通読したことはなくて、拾い読み程度しかしたことがないんだけど。 (同様に『失われた時を求めて』も通読は不可能である…。)
不景気、経済の不安が囁かれ始めると、決まってマルクスやケインズといった経済学の古典が注目されるようになる。


商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つのものである。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂回をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。<資本論:マルクス:向坂逸郎訳>


「資本論」は序盤からこんな感じである。マルクスの著作は、小難しい表記が多く、これらを把握していないと、最初のうちは読み進めていっても意味がわからないのだけれど、実は慣れてしまうとあまり苦にならない。抜粋した文章内の「商品」というキーワードも、マルクスの著作を読み進めていくうえで、最も重要なキーワードのひとつである。
それが書物であれ絵画であれ、「モノ」が商品として売買されるのは、それになんらかの「価値」があるからである。そして、その商品の価値は、その商品が生産されるためにつぎ込まれた「人間の労働量」により決まる。多くの人間が、多くの時間を費やし生産された商品は、それだけ価値が高いし、一方で、少ない人数で簡単に、少しの時間さえあれば生産できてしまうような商品は価値が低い。

さて、商品が生産されると次に「交換」が始まる。 A君は自分の畑で「野菜」という商品を生産し、B君は狩りによって「肉」という商品を調達してきた。 A君がB君の商品を欲し、B君がA君の商品を欲した場合、そこに「野菜」と「肉」の物々交換が生まれるわけだ。そして、ある時点でA君が野菜を栽培するまでに費やした労働量、B君が狩をして肉を調達するまでに費やした労働量それぞれを、数値に置き換えることにした。それが「価格」であり、同時に「貨幣」が生まれたのである。

貨幣の発生は必然的なものだった。 たとえば、B君は自分の持っている商品を何か別の商品と交換しようと思っていた。もちろん、自分の欲しいものである。だから、B君は自分の持っている「肉」と見合うだけの使用価値がある商品でなければ満足がいかなかったわけだ。ここでA君が自分の「野菜」とB君の「肉」を交換してくれないかと申し出るわけだが、B君はそれに応じない。何しろこの「肉」は、命の危険をおかして、やっと手に入れた貴重な商品なのだ。畑でぬくぬくと生産されている「野菜」なんかと釣り合うわけがない。こうなると、2人は「自分の商品を別のものに交換したい」と思っているにも関わらず、意見が一致せず交換は永遠に成立しない。
物々交換にはこのような弱点があり、だから「商品」と「商品」の間には「貨幣」が入らなければならなかった。すなわち、貨幣とは交換=商品流通の手助けをする存在なのだ。このことから、貨幣にはまるで全ての商品の価値を計れる絶対的なものとして認識されるようになった。マルクスはこれを貨幣の「物神的性格」などと呼んだ。

交換経済がもう少し発展すると、商売が生まれてくる。商売の基本は「利益を生み出すこと」である。 100円の材料を使い生産された商品には、確かに100円分の価値があるのだが、その商品はなにも材料のみで自然発生したわけではない。それを生産するための労働力なども加算し、120円の価格で販売しなければ「利益」は出てこないのだ。この商品120円から材料100円を引いた20円分の価値を、マルクスは「剰余価値」などと呼んだ。剰余価値は商品を生産する過程でのみ発生する価値なのである。

ここで「資本家」と「労働者」という2種類のタイプが生まれてくる。資本家とは、まあ簡単にいってしまえば会社の社長であり、労働者とは社員である。
あるとき資本家タイプのB君は、もっと多くの「肉」を生産するために、たくさんの人間を集めて狩猟団を結成した。大勢で徒党を組んで狩りをすれば、命を落とす危険性も低まるし、より多くの獲物をゲットできると考えたからだ。もちろん狩猟団のリーダーはB君であり、彼は狩猟で獲得した「肉」を村の人々の販売し、多くの貨幣を手に入れた。そしてB君は狩猟団のメンバー全員に、取り分として少しずつ貨幣を分け与えた。そう、B君こそが「資本家」であり、狩猟団のメンバーこそが「労働者」である。
だが、しばらくするとB君の狩猟団に予期せぬ事態が起こる。隣の村から新しくC君という資本家がやってきて、B君よりも安く「肉」を販売し始めたのだ。いわゆるライバル企業の登場である。 C君が、なぜB君よりも安く「肉」を販売できるかというと、彼は狩猟なんていう原始的なことをやめて、牧場で牛や豚などの食用肉を大量生産していたからだ。しかも、狩猟団のようにたくさんのメンバー(社員)を募ることはない、牧場を管理する数人程度の労働者を雇えば事は足りてしまうのである。
B君は焦って、自分も牧場経営型の食肉販売を始めることにした。そして、ここで初めて「リストラ」という行為が行われる。今まで何十人もの狩猟団メンバーを雇ってきたわけだが、牧場管理にはそんな多くの労働者は不要なのだ。

このように、ライバル企業に差をつけて、自分の会社だけもっともっと多く利益を出そうとする行為は、必然的に「失業」へと繋がっていくのである。経済が発展すると新しい技術・機械が発明され、「肉」や「野菜」に限らず、あらゆる商品の生産活動が自動化=機械化されていく。今まで手作業で生産していた商品。それをもっと安価な労働力で大量に生産するためには機械の導入が必要だ。資本家は「機械」を雇い、人間という労働者の職を失くしていくのである。そう、労働者の最大の敵は「技術の進歩」なのだ。
技術の進歩により失業者が増えるということ、それは「貨幣」を持っている人間の総量が減少することを意味する。つまり、資本家は自らの商品を売りたいがために生産の機械化をし(失業者を増やし)、自らの商品を購入してくれる世の中の消費者も同時に減らしてしまっている。
どうやら、資本主義は必然的に「破滅」へと向かうように決定付けられているかのようである。 元々は、利益を追求するためにしていた行為=技術の進歩が、この世界ではまったく逆効果に働いてしまっている。
マルクスはそこに「資本主義の矛盾」があるといった。

posted by もときち at 10:47 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2011年01月05日

新社会人におすすめのビジネス書

僕自身、学生時代は文学作品や哲学書ばかり読んでいて、ビジネス書というのはあまり(というか全く)読んでいませんでした。
ところが、企業に就職して社会と関わるようになり、さらに独立起業して仕事をするようになってからというもの、文学作品の類を全く読まなくなり、最近ではビジネス・経済関連の本ばかり読むようになってしまいました。まあ、ただ単に面白い小説がなくなった…という理由もあります。村上春樹以降、日本の文学界は滅亡の一途をたどっていますし、海外でも面白い作家がめっきり少なくなってしまった。なにしろ、芸能人の書いた小説が純文学(!?)としてベストセラーになる時代なんだから…。
そんなわけで、週3回は書店に足を運ぶ僕も、最近は文芸コーナーはスルーして、まっさきに金融・マネー誌、それからビジネス新刊コーナーへ行くようになりました。

…さてさて、ちょっと前置きが長くなりましたが、今回は僕が実際に読んだことのあるビジネス書で 「これから社会人になる学生さんにお勧め。」 というものを、何冊か紹介していこうと思います。
「企業」という組織の一員になること。ビジネスという新しい人生のスタートに夢見る新社会人は、最低これくらいは押さえておいたほうがいいかも?


金持ち父さん貧乏父さん [単行本] / ロバート キヨサキ, シャロン・レクター(公認会計士) (著); 白根 美保子 (翻訳); 筑摩書房 (刊)金持ち父さん貧乏父さん
お金に関する常識を真っ向から解説している本。なぜ彼は有名大学を出た高学歴でありながら低収入なのか。なぜ彼は高校中退でありながら億万長者になれたのか。
学校教育では教えてくれない…いや、下手をしたら社会に出ても一生気づかないまま終えてしまうかもしれない「お金のリテラシー」について。
もちろん、あなたが「額に汗して真面目に働くこと」こそビジネスの本質だと主張するのなら本書を読む必要はない。


フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 [ハードカバー] / クリス・アンダーソン (著); 小林弘人, 小林弘人 (監修); 高橋則明 (翻訳); 日本放送出版協会 (刊)フリー
2009年の出版から1年以上が経った現在…。ネットビジネス、WEBの世界でいったい何が起こっているのか。それらを総括して、手っ取り早く知るためには最適な一冊。
たとえば、Googleはサービスのほとんどを0円=無料で提供しているのに、いったいどこからあんな莫大な収益をあげているのか。
インターネットについて書かれた本ではあるが、無料化問題はIT企業にとどまらず、音楽・出版業界にも大きな打撃を与えている。


ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則 [単行本] / ジェームズ・C. コリンズ, ジェリー・I. ポラス (著); James C. Collins, Jerry I. Porras (原著); 山岡 洋一 (翻訳); 日経BP社 (刊)ビジョナリー・カンパニー
いまやビジネス書の古典として地位を確立した本書は、若いビジネスマンを中心に絶大な人気を誇っている。
100年経っても存続し、社会に影響を与え続ける企業には、いくつかの法則がある。本書は、そういった「歴史に名を残す企業」を組織したいと考えている経営者に向けて書かれた作品。 100年企業を設立した起業家たちは、まず始めに「どのような商品を作るか」ということよりも「どのような会社にしようか」を相談することから始めた。会社とは作品である。


キャズム [単行本] / ジェフリー・ムーア (著); 川又 政治 (翻訳); 翔泳社 (刊)キャズム
マーケティング関連の書籍としては読み易く、コトラーはちょっとお堅い… という人にお勧め。
市場では必ずしも「良い製品」が売れるとは限らない。それがまだ我々が体験したことがない、夢のような機能を備えていた新製品だとしても。
大切なのは、その新製品をマーケットの軌道上に、いかにして着地させるかということである。市場には、新製品にいち早く反応して興味を示す先駆層と、新製品が業界標準に固まるまで購買しない保守層とがいるのだ。


イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press) [単行本] / クレイトン・クリステンセン, 玉田 俊平太 (著); 伊豆原 弓 (翻訳); 翔泳社 (刊)イノベーションのジレンマ
ある巨大企業は業界ナンバーワンの技術と収益性を持っていた。
しかし、そこに全く新しい概念を持ち込んだ会社が新規参入することによって、古き巨大企業は滅びていってしまう。
ここ最近のもっとも分かりやすい事例でいうと、インターネットという「破壊的イノベーション」によって、我々はわざわざ新聞を購読する必要がなくなった。CDを店舗で購入せずとも、ネット上でダウンロード出来るようになった。技術革新は「既成概念」にすがっていた企業を滅ぼすのである。


競争の戦略 [単行本] / M.E. ポーター (著); 土岐 坤, 服部 照夫, 中辻 万治 (翻訳); ダイヤモンド社 (刊)競争の戦略
多くの経営者からストラテジーの最高峰との評価を受けている名著。
企業を取り巻く要因、競合他社、差別化、新規参入業者、顧客ニーズや業界の環境などなど、ビジネスの教科書的な語句のオンパレード。
ドラッカーの著書のように、おカタい経営学の書として名高く、途中で挫折する人も多いらしい。大学の経営学部でもよくテキストとして利用されているので、既にご存知の新社会人も多いのでは。挫折者のために「ポーター教授・競争の戦略」の入門書も出版されている。


MBAバリュエーション (日経BP実戦MBA) [単行本] / 森生 明 (著); 日経BP社 (刊)MBAバリュエーション
うちの会社は(あるいは自分の職種は)企業買収とかはあまり関係ないかな…という人にもお勧めの一冊。
ところどころ面倒くさい数式も出てくるけれど、企業価値=会社の値段の算定方式について、これ以上分かりやすく書かれた本は他にない。
会社を売り買いする場、それが株式市場であり、M&Aという活動である。
うちの会社は、いったい「いくら」なんだろう。本書は、そんな素朴な疑問に多角的な視点からこたえてくれる。


 
posted by もときち at 10:56 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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