2009年12月28日

コード化=超コード化=脱コード化


構造と力―記号論を超えて [単行本] / 浅田 彰 (著); 勁草書房 (刊)
僕が生まれた時代、1980年代初頭に「ニューアカデミズム」という一大ムーブメントがあった。1983年当時、京都大学の助手であった浅田彰が著したポスト構造主義に関する専門書『構造と力』が、哲学書としては異例のベストセラーとなり、彼の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて「ニューアカデミズム」と名付けたのである。
『構造と力』では、フーコーやラカン、レヴィ=ストロースといった難解な現代思想が、まるでチャート式参考書のように、これ以上ないくらいにわかりやすく解説されている。本書のクライマックスは、なんといってもドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から抽出した“コード化”のくだりだろう。


言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇としてとらえねばならない。それは、錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである。
…さて、文化が多少とも安定した構造として存立するためには、この垂直の力が社会全体に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することが出来るだろう。以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、 (1) コード化−原始共同体、(2) 超コード化−古代専制国家、(3) 脱コード化−近代資本制の三段階の定式化を行うことにする。<構造と力:浅田彰>


我々人間の欲動が制御され、そこに諸々の文化が形成されていく過程には「コード化、超コード化、脱コード化」という3つの段階がある。
たとえば、動物は本能によってあらかじめ欲望の方向性がどこに向かうべきかを決定づけられているが、人間は違う。人間は自己のエネルギーをどこに向ければよいのかわからない状態で生まれてくる。
これは、ドゥルーズ=ガタリの欲望史観に大きな影響を与えたラカンの考え方だが、このような拡散する人間の欲動を一定方向に導くこと、それが「コード化」である。


万古の昔から所定のルール通りに器械的な回転を続ける一般交換の円環。これこそレヴィ・ストロースの言う冷たい社会を支えるメカニズムである。我々は、しかし、モースにあってレヴィ=ストロースが無視している側面に注目したい。それは微視的なダイナミックスの分析とも言うべき側面である。
モースは、贈物には特殊な力が宿っていて受贈者に返礼を強いるのだという思考形式をとり出し、何度も問題にしている。実際、はじめから閉じた円環をふかんするのではなく、あくまでも一方的な行為としてのひとつの贈与に注目してみよう。すると、この贈与が受贈者をいわば債務者の地位に落とすことがわかる。
…このようにして力は社会の全表面に拡がり、ひとりひとりにルール通りの行動を課していく。本能による規制を失ってありとあらゆる方向へ走り出そうとしていた欲望の流れに対して、コード化が行われるのである。<同>


しかし、歴史上において次に「専制君主機械」と呼ばれるシステムが登場する。
専制君主機械は古代国家、すなわち原始共同体に根付いたコードを一挙に取り払い、一切の剰余価値は「王」に帰属し、次に「民」に贈与されるものだという図式を作り上げる。つまり、民は王に対して永遠の負債を負うことになるわけだ。これが「超コード化」、すなわち「王」を頂点とする秩序によって社会の安定が保たれるシステムである。


重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制するというこの新しい体制のメカニズムを「超コード化」と呼ぶことが出来るだろう。さて、このメカニズムはあの力をどのように作動させているのだろうか。ここで我々は、各人が絶対的債権者としての王に対して無限の負債を負うという構図を見出すことができる。今や、王こそがはるか高みからピラミッド全体を吊り支えてくれる原点となり、終には各人の存在そのものが王の賜物であるとされるにいたるからである。何としても埋めようのないこの負債がシステム全体を金縛りにして安定させる。これこそ超コード化のメカニズムの働きである。<同>


そして今、我々が生きる近代資本制の社会は「脱コード化」と呼ばれる時代にある。ここでは既に古代専制国家の「王」のような絶対的債権者は存在しない。では、この脱コード化の社会において秩序を生み出すのはいったい何者であるのか? それは「貨幣」である。
超コード化の社会はピラミッドの頂点に「王」が君臨し、円錐型の秩序を形成していた。一方、脱コード化の社会においてはピラミッドの頂点に君臨するのは「貨幣」ではない。貨幣は「頂点」と「世俗」の間をぐるぐると、めまぐるしく回転運動を続ける存在である。


貨幣はたえず再投下されて商品に化身し、売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり、神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字通り死に金にすぎないのである。
…注目すべきは、こうした運動への誘導が、超越的・絶対的な中心の媒介によってではなく、あくまでも内在的・相対的な形で行われるということだ。各人は自分に先行する者のうち手近なひとりを媒介として選ぶことが出来る。それをモデルかつ障害物として追いつき追いこそうとすることが、彼を自然に競争過程へと導いていく。そして、媒介を追いこしてしまえば、今度は自分が媒介とされる番というわけだ。<同>


もちろん「手近な媒介」というのは、生まれた子供が最初に追いこそうとすべき存在、すなわち「父親」である。親の役割は、脱コード化の社会における競争過程への第一の誘導装置なのだ。しかし、若者はいずれ親を追いこし、新たなる媒介を発見する。そしてまた彼は際限なき競争に駆り立てられるだろう。一流大学に入り、一流企業に入り、課長になれば次は部長に、部長になれば次は取締役に…。回転する回し車のなかで走り続けるネズミのように、もっと多くの貨幣を、もっと高い理想を追い求めようとするのだけれど、どんなに多くのものを手に入れても我々の欲望が満たされることはない。それが現代人の姿である。

posted by もときち at 10:29 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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