2009年12月14日

世界劇場へようこそ


もし人間というのが永遠に死なない存在だとしたら、いつまでたっても消滅しないで、歳をとるということもなくて、この世界でずっと永遠に生きていけるものだとしたら、人間はそれでもやはり、私達が今こうやっているみたいに、一生懸命あれこれものを考えたりするのかしら?
つまり、私達は多かれ少なかれいっぱい物事について考えたりするでしょう。哲学とか、心理学とか、論理学とか。あるいは宗教、文学。そういう種類のややこしい思考とか観念とかいうものは、もし死というものが存在しなかったら、あるいはこの地球上に生じてこなかったんじゃないかしら?
―つまり、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするのかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、「時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや」ってことになるんじゃないかな。<ねじまき鳥クロニクル:村上春樹>

 
迫りくる「死」に対する一般的防衛法は、出来るだけそれを忘れること、自分が死ぬという事実を出来るだけ想像しないようにすることだ。
ともすれば、人間が形作る社会、科学、文化などの諸制度は、根本的には「死への不安」を隠蔽するための無意識から発明されたものだと解釈することができる。「死」は人生を限定された時間にする。それは人生が価値ある一瞬の連続になるということである。
 
1909年、彼は弱冠20歳にして「死」と向き合うことになった。マルティン・ハイデガー。若き日の彼を数回に渡り襲った心臓病は、彼の残りの人生に「死」の恐怖感を植え付けた。本を読んでいる時も、ペンを握っている時も、或いは眠っている時でさえも、彼はいつ死ぬか分からない不安に襲われ、いかなる時も「死」と同伴しながら道を歩まねばならなくなった。足元がグラグラした。自分の存在が今にも消えてしまうかもしれないという不安に揺らされて。
20世紀最大の哲学者ハイデガーの存在哲学、彼の定義する「死」は、このような背景のもと生まれる。そして、ハイデガーの代表作である『存在と時間』は、後に実存哲学、構造主義、ポスト構造主義などの哲学界ばかでりでなく、文学や言語学といった様々な分野に多大な影響を与えた。
 
存在とはなにか。この命題は哲学においてはるか昔から問われ続けてきたものだ。ハイデガーの存在論は難しい。まず、その使われている語句の意味についても、予備知識なしには理解不能といっていいだろう。たとえば、ハイデガーにおいて「世界」とは、一般的に理解されている地理的な、或いは空間的な世界(宇宙)のことではない。『存在と時間』が語る「世界」は、存在者の集合体でもなく、存在者の次元にあるものでもなく、存在の次元に属しているものだ。(「存在者?存在の次元?いったい何のことやら・・・」 と、首をかしげるのが普通です。安心してください。)
たとえばリンゴは「存在者」だ。狭義の意味で存在者とはようするに「モノ」のことである。つまり、物質や動物。物質に「者」がつくのはおかしいと思われるかもしれないが、ここでは物質・動物などの「モノ」を総合して「存在者」と解釈するしかない。
リンゴは存在者、だからリンゴは存在する。丸くて赤い、美味しいリンゴがあなたの目の前に存在している。しかし、リンゴの存在はリンゴではない。リンゴならばあなたの目で視ることが出来るが、“リンゴの存在”をあなたの目で視ることは適わない。あなたはリンゴは所有し、保存することが出来るが、あなたは“リンゴの存在”を所有し、保存することは出来ない。だから、失いようがない。リンゴを失くしてしまったと表現は出来るが、“リンゴの存在を失くしてしまった”と表現は出来ないだろう。
 
ちょっと待ってほしい。だとすれば、人間は自分の存在すら所持していないことになるではないか。
…そう、人間は誰も自分の存在を所持などしていない。それはただそこに存る。ハイデガーは、人間のことを「現存在」と語る。前述したように、人間は存在者のなかに含まれるのであり、同時に現存在は特殊な存在者でもある。なぜなら現存在(人間)には、我々人間とその他の全ての存在者(モノ)をその存在において理解することが出来るからだ。
ハイデガーの『存在と時間』において、現存在(人間)の分析は、世界内存在に定位して遂行される。人間は世界内存在である。ここでいう「世界」とは、先ほども述べたとおり、一般的に理解されている空間的な世界ではなく、存在に囲まれた過去・現在・未来を含む次元のことであり、その内部外部的環境に関わりを持つ(ゾルゲ)ことが出来るのは世界内存在である人間だけだ。そして、ハイデガーの哲学が目指しているのは、存在が時間から理解されるだろうという“証明”である。
 
 
この世界は劇場だ。人生は演劇であり、人間は役者である。シェイクスピアはそう言った。この「世界」をひとつの舞台とするならば、役者である人間は、あるときは働くことを演じ、あるときは泣くことを演じ、そしてあるときは老いることを演じる。このように人間は様々な役割を演じている世界の内の存在にすぎない。そして世界は、人間にとって、様々な役割と意味が混じり合った巨大な秩序体として成立している。
 
・ そして今、あなたはリンゴを食べた(役割を演じた。)
 
その役割は未来永劫、もう二度とめぐってくるものではない。いまこの時間、この場所で、リンゴを食べるあなたという存在は、地球上でこれから何千年、何万年の時間が流れようとも、二度と生まれることはない奇跡的な場面なのだ。
この瞬間、毎秒毎秒「存在は死んで」いく。「死」とは、人間が年老いて、心臓が停止するとか、生命活動が途切れることだとか、普通はそう解釈されている。しかし、このように解されると、ハイデガーの死の分析はまったく理解できないことになる。ハイデガーは、人間は 「既に死に至っている」 存在だと言う。あの瞬間、リンゴを食べるあなたの存在が死んでしまったように(二度と生まれてこないように)、人間は毎秒毎瞬その存在を死なせながら生きているのだ、と。 死は生の現象そのものである。
 
流れる音色、ハーモニー、美しい音楽。
もちろんそれが美しいと感じられるのは、ひとつひとつの「音」に対してではなく、音の連なり、時間の流れに対してである。前の音が消え、次の音が現れる、…とても不思議だ。
音が在るのは消えるからであり、音は在ると同時にまた無いのだ。連なる「音」は、どの瞬間もすべてが唯一無二。どの瞬間もかけがえなく運命的であり、独自のもの、すべてがクライマックスであり稀有な現象である。在ると同時に無い(消えていく)存在たち。生に含まれる死。どのような事物も、その中にそのものを否定する事物を含んでいるということだろう。
柵に囲まれた公園。入口から入って、園内を散歩したら出口へと足を向ける。ひと回りして、入った場所へ戻るだけのこと。 …そうだった、出口は確かにさっきまで入口だったのだ。
 
 
だから行こう、我々が開かれたものを見るために
我々が固有なものを、どんなに遠くとも、探し求めるために
ひとつのことは定まっている
真昼であろうと、真夜中に至ろうとも、常にひとつの尺度が、全てのものに共存している
しかし各人にもまた固有のものが割り当てられている
各人は彼が行きうるところへ行き、来うるところへ来るのだ

<パンと葡萄酒:ヘルダーリン>

posted by もときち at 21:42 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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