2009年12月07日

経験のメガネ

カント


遠くからこの写真を見ると誰かがゴルフをしている風景にしか見えないけれど、目を近づけてよおく見ると、それがプロゴルファーのタイガー・ウッズであるとわかるはずだ。タイガー・ウッズは黒人で、プロゴルファーで、いつも帽子をかぶってて…といった「タイガー・ウッズはこれこれこういう人間だ。」という我々の経験に照らし合わせたから、我々は写真に写っている人物がタイガー・ウッズだとわかったのである。
ところが、ここで「あなたはタイガー・ウッズさんですか?」と声に出して問い掛けても反応がないと、あなたは「本当に彼はタイガー・ウッズなのか?」と疑いだすことになるだろう。彼があなたの問い掛けに反応しない理由。それは彼が生身の人間ではなくラスベガスのマダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だからである(笑)
 
これらのことが意味するのは、我々人間は事物そのものを認識しているのではなく、目に映っている現象を見ているにすぎない。目に映っている現象から物事を判断しているにすぎないということだ。
このタイガー・ウッズの写真が、マダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だと認識しているのは、実際に写真撮影をした僕と蝋人形館に勤務している従業員くらいのものだろう。つまりこの段階では、僕と従業員の経験が共有されていることがわかる。
僕と従業員は「経験というメガネ」で、この写真を判断している。
 

カント

 
では、この写真をもっと遠くから見るとどうだろうか。
僕はもちろん、蝋人形館の従業員にも“誰かがグリーン上にいる写真”という程度の認識しかできないはずだ。つまりこの段階では、僕も、蝋人形館の従業員も、そしてこのブログを読んでいるあなたも、三者の経験は異なるにも関わらず、誰かがゴルフをしている写真という認識は共有されているのだ。哲学者イマヌエル・カントは、上記のように各人の経験が異なるにも関わらず、すべての人間に共有されている認識、それこそ普遍的なもの、純粋な認識だと定義した。
 
我々は物事を目に映っている現象で判断している。現象とは時間と空間によって生成されるものだ。リンゴが樹から落ちるという現象は、落ちる時間と落ちた空間によって生成されている。ようするに、時間と空間という形式は人間なら誰でも共有している認識というわけだ。
これを人間にあらかじめ備わっている認識=ア・プリオリ(先天的認識)と呼ぶ。
ア・プリオリなものとは、いつの時代の、どのような民族にも当てはまり、それは人間が生まれた時点で既に備わっているもの、経験が無くても、誰にでも認識できるものだ。たとえば「人を殺してはならない」という考え。どんなに気の狂った犯罪者でも、どんなに考えの偏った民族集団でも、人を殺すことは、なにかいけないことではないか…という「呼び声」が心の奥底から聴こえてくるはずだ。あなたがいくら悪徳の限りを尽くしても、この呼び声は、静かに、静かに心に響いてくる。もちろん、この呼び声は動物には聴こえない、我々人間のみが聴くことのできるものである。もし何かの認識によって行動するのなら、その認識があなた一人ではなく、あらゆる人間に当てはまる認識であるかを確かめること。カントは我々に「経験のメガネ」の外し方を教えてくれた、偉大な哲学者であった。
 
 
―先天的認識を探究したカント。
しかし、実際の彼は自分の判断力を他人の悟性に照らし合わせて判断することを無用とみなすエゴイストであったし、ようするに彼は他人の意見に対して聞く耳を持たなかった。まあ、有能な人間は誰しも自分の意見に絶大な自信を持っており、カントもまた例外ではなかったということだろう。
 
 
posted by もときち at 14:45 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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