2009年07月18日

環境問題について

周知の通り、アメリカにとってのイラク戦争は石油資源強奪のための戦争であった。
日本にとっても、EU諸国にとっても、もちろんアメリカ合衆国にとっても、石油は需要の高いエネルギー資源だが、その中にあって何より石油資源を必要としたのは、やはりアメリカという国であった。
日本は島国だから、石油資源の確保をほとんど輸入に頼るしかなかったけれど、そのような地政学的状況にあったからこそ、オイルショック以降の日本は、石油資源の浪費を抑制して省エネ型の経済社会へと転換していけた。しかし一方で、アメリカは依然として膨大な石油エネルギーの浪費型経済に停滞しており、だからこそ彼らはクウェートの石油を必要としたのだし、そのような意味で昨今流行の「エコ」や「クリーンエネルギー」といった環境運動に最も反対していたのが、実はアメリカだったということが出来るだろう。
 
そう、アメリカは地球環境保護運動に最も反対的な立場をとっていた国である。温室効果問題を例に挙げると、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの排出により、海面が上昇したときに被害を受ける多くの国はベトナムやバングラデシュなど南側であり、アメリカのような北側はほとんど被害を受けない。あるいは受けたとしても合衆国南部の(一部の)州を放棄すればよいだけの話だと、彼らは開き直っていた。そのアメリカがここに来て、驚くべき変わり身の早さで「グリーン・ニューディール」などと言うのは何故だろう。
もちろん、アメリカが動く理由はいつも決まって「お金のため」だ。
 
アメリカ合衆国大統領にバラク・オバマが就任すると、彼はイラクからの撤退を宣言して「New Energy for America」というビジョンを掲げ、石油浪費型の経済に見切りをつけようとした。そして、クリーンエネルギーの思想は、オバマ大統領の詩的なスピーチによってその魅力が世界中に伝わった。このような状況下にあって、日本企業がエコビジネスに飛びつくことは当然の流れとも言える。「環境」と名のつくものであれば政府はたんまりと助成金をだしてくれるし、「未来の地球のために」というテーマは、実に心地よい響きとなって、我々の心を掴むものだ。ただし「環境にやさしい」ということに厳密的な定義は無いし、あるいはその言葉が、企業のキャッチフレーズになって独り歩きしているだけなのかもしれない。だから、この加熱する環境問題については、少し立ち止まって考えてみることも必要だ。
 
環境保護運動をはじめると、そこには偽善と露悪の戦いが生まれる。まず一方では「未来の地球のために」という美名に乗っかって、環境ビジネスを始める連中がいる。けれども、それは本心から地球のためなどではなく「連中自身の金儲け」のためという欲望が渦巻いている。
また一方では、それら偽善者の環境運動を痛烈に批判する連中がいる。しかし、批判する側の連中ときたら生産的なことはまるでなさないし「どうせ何をしても無駄だから」とか「放っておいても地球の気温というのは変動する」などと居直るだけだ。こういった二項対立のみで物事を考えるのではなく、そうではない世界で適度に地球環境へ貢献していくことがスマートなやり方ではないだろうか。
 
地球環境問題が人間社会にとって大きな課題であることに間違いない。かつての経済社会システムは、地球環境のそれと比べれば極めて小規模な問題に過ぎなかったのに対し、20世紀以降においては、地球環境のそれと比べて経済社会システムがあまりにも大きくなりすぎた。そして、このような問題が露呈してくるなかで、何らかの対策を講じようとする集団と何もしたがらない集団と言うのが現れる。ひと括りに言ってしまえば、それが「偽善と露悪」の戦いであった。90年代アメリカは少なくとも露悪的な立場にあったのが(昨今の金融危機の影響も受けて)お金のためのエコロジーという偽善的な立場をとるに至ったのである。
 
「気温が低下している地域もあり、温暖化は起きていない」などと、地球温暖化に懐疑的な連中はどこにでもいる。しかし、エコロジーというのは結局のところ未来の問題なのだ。確かに、これこれこういう経緯で地球は温暖化しているんだという、はっきりとした仮説と立証は出来ていない。にもかかわらず、取り返しのつかないことになって後悔しないように、怪しいものはとりあえず自制しておこう…というスタイルが、不確実性に対する最も効果的な処方箋なのかもしれない。

 
posted by もときち at 12:24 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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