2009年06月24日

コミュニケーション考

僕はビジネス、とりわけ「業務の効率化」について熱っぽく語る人間が苦手であり、個人的にあまりお近づきにはなりたくはないと思っている。にもかかわらず、ビジネスの世界においては業務の効率化やコスト削減が必要不可欠だし、かく言う僕自身、無駄を省き最大限の結果を導き出すという「業務の効率化」を大いにすすめる、矛盾した仕事観を持つサラリーマンにすぎない。そのような前提で、今回はコミュニケーションという問題について書いてみる。
 
昨今、他者とのコミュニケーションについて議論するとき、必ず引き合いに出されるのが電子メールというツールである。多くの大人は電子メールを批判的にとらえ、若者のコミュニケーション不在を嘆くものであり、若い世代はそれに対して、メールは忙しい相手でも気軽に連絡を取り合える、最高のコミュニケーションツールといった評価を下している。
この文脈でいうと僕個人は「若い世代」に属するものであり、やはり昨今のビジネスにおいては、メールが最も便利な情報伝達ツールだという言説に、ほぼ異論はないのである。
 
 
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「時間は世の中でも最も価値の高い財産だ」という言葉がある。人間はこの世に生をうけた時点で「時間」というかけがえない財産の限度額が決定付けられている。その財産は決して増えることがなく、生まれてから後はただひたすら死に至るまで、その財産を消費していくばかりである。そして、僕たちはあらゆる局面で他人の時間を奪いながら、あるいは他人に時間を奪われながら生きている…、それが人生である。
友人に電話をかければ、話している分だけ、友人に人生という時間を奪われてしまう。会社に就職すれば、会社で働いている分だけ、会社に人生という時間を奪われてしまう。あるいは、本を読めば読んでいる分だけ、本に人生という時間を奪われてしまう。
もちろん、こんなことをいちいち考えながら生きている神経質はあまりいないだろうけれど、時間が有限なものだという意識を常に持ち、他人の時間をやたらと搾取するような、そんな振る舞いだけは抑制していかなければ、失礼に当たるというものだ。
アメリカはそういった「時間に対する意識」が最も顕著に現れている国である。たとえば、日本には「飛込み訪問」という営業スタイルがあるが、アメリカにおいては、アポイントもとらずに相手先に訪問して、他人の時間を一方的に奪ってしまうような行為は、最低のマナー違反として認識されているという。
タイム・イズ・マネー「時は金なり」である。
 
そのような意味で、電子メールは他人の時間を無理矢理奪うことのない、極めて礼儀正しいツールということが出来るだろう。メール以前のコミュニケーション手段というと、電話であり、面会であり、いずれにせよ自分の都合で他人の時間を拘束してしまうものであった。一方で、メールは他人の時間を束縛しないうえ、電話のように自分の伝えたいことが瞬時に相手に届くという、いくつもの長所を兼ね備えている。そんなわけだから、メールを送った直後に「メールを送ったので見てください」と、いちいち電話で伝えてくるような人は、まったくもって「メールを使えてない」のである。そういうものは、メールを送った後に返事が来なければ、経過時間を見計らってから電話確認すればよい。
「電話」もそうだけど「会議」というのも実に厄介な代物である。世の中には、なにかにつけて会議(打ち合わせ)をしたがる「会議大好き人間」というのがいる。関係ないような社員を片っ端から集めて、ブレインストーミング紛いの事を始めるのだが、たいして大きな成果をあげられず、気がつけば2〜3時間はあっという間にロスしてしまう。おまけにさんざん遅刻してきた会議参加者が、いきなり見当違いのことを言い出して、議論が振り出しに戻ってしまうという例も多い。
会議とは結論を導き出す場であって、企画やブレインストーミングをするような場ではない。個人のアイデアを募るというのなら、それこそメールが最適なのであり、事前にメーリングリストを通じて議論を煮詰めておくことで、時間の無駄は最大限省けるのである。
 
このように書いていくと、メールはまさに最強のコミュニケーションツールのように思えてしまう。しかし、メールは便利な一方で、実に御し難い問題も孕んでいるのである。メール・コミュニケーションは、相手の顔が見えないし声も聞こえないから、普段では言えないようなキツい言葉も簡単に言えてしまうという、人間関係をギクシャクさせる面を持っている。インターネット上で「荒らし」や「誹謗中傷」が絶えないのも、相手が自分の目の前にいないという状況があってこそだ。彼らには「何を言っても自分の所在はバレないし、私が被害を受けることはない」という自信があり、このような人間は、面と向かって話をすると案外「いい人」で、あまり会話が得意とは言えないようなタイプが多いのだ。
 
僕自身も口下手で「会話」というのが実に苦手である。苦手…というか、非常に面倒くさく感じてしまうことがしばしばある。実会話によるコミュニケーションは「わたし」と「あなた」の2人が、同じ時間軸のなかで共通の話題を声に出してしゃべることにその意義がある。しかし、世間には少なからず「他人の心理が読めてしまう」人間がいることを忘れてはならない。そのような人は、会話相手と同じ時間軸上にいるように見えて、実はそれよりもずっと先の世界へ、一瞬にして到達してしまうような速度を備えている。
天才的な棋士である羽生善治と、まったくの素人棋士が将棋で対局したとしよう。おそらく、羽生は数手打った時点で終局が見えてしまうに違いない。一方で素人挑戦者は、まだ勝負は始まったばかりで終局など見えるはずもなく、たいそう時間をかけて次からの戦略を練っているのである。このとき羽生に到来する思いは、いったいどのようなものだろうか。「すまないけれど勝負はもうついているんだ。君のやってることはムダなんだよ、もうやめにしよう」といった気持ちなのだろうか。あるいは、北斗の拳だったら「お前はもう死んでいる」と言うかもしれない。
会話によるコミュニケーションもこれと似て、相手が1つの話題について話し始めたとき「この人が最終的に何を言いたいのか」を、一瞬にして把握してしまう人間がいる。相手の気持ちが全て手に取るようにわかるから、彼は言葉を発する気がしない。羽生と素人棋士がそうであったように、2人の時間軸は異常なまでにずれており、だからこそ、彼にとって他人と会話をすることが、とてつもなく不毛な行為に思えてしまうのだ。
 
現代人の多くがこのような面倒を嫌悪するあまり、時間軸に左右されない「メール」を愛好しているのではないかと勘繰ってしまう。しかし、コミュニケーションとは本来「ムダの集積を楽しむ」ものだという解釈も出来るだろう。「相手が最終的に何をいいたいか」分かってしまうからといって、相手との会話を拒否するという思考はあまりにも短絡的である。
自分の言いたいことを最小限の言葉数で相手に伝えることが「コミュニケーション」ではない。人が何か言葉を発する時、そこには必ず何かしらの「余計な情報」が含まれているものであり、むしろそういった「余計な情報」からこそ、その人の個性が生まれてくるのだ。もしも「結論」だけを機械的に発する人間がいるとしたら、その人はおそろしく無個性であり、きっと現実世界では生きていけないだろう。
 
個性はそもそも「ムダの集まり」から形作られるものである。あの映画を見て彼女はこう感じた。あの本を読んで彼女はこう思った。一刻も早く結論を知りたい人にとっては、彼女がどうこう思ったというのは「余計な情報」以外の何ものでもない。
にもかかわらず、そのような「余計な情報」にこそ彼女の個性が脈打ち、彼女を知りたい…、彼女と話したいという欲求が生まれてくる。彼女が「最終的に何をいいたいか」は一瞬にして分かってしまうけれど、しかし「彼女がいったい何者であるか」は、僕達は永遠にわからないからだ。
 
 
posted by もときち at 13:51 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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