2009年06月02日

幽霊の誕生

カフカの「変身」で、グレーゴル・ザムザはある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気がついた。同じように、僕達はある朝自室のベッドで目が覚めると、自分が「透明人間」になってしまっていることに気がつくだろう。ただ実体が透明で目に見えないというだけでなく、存在そのものの認識がされない「透明人間」なのだ。その場所、その時間、世界から自分の存在そのものが消えてしまったということ。
電話がかかってきたので、どうにかして応答しようと受話器をとるのだけれど「声」が出ない。しかし、試行錯誤のすえ、僕達はいくつかの方法にたどり着く。
 
1.声は出ないが声の録音ができる。
2.ペンを使って文字を書くことができる。
3.写真・動画にうつることが出来る。
 
なんらかのメディアに、自分の行動を記録として残すことが可能なのだ。
その記録を駆使して、僕達は透明人間でありながら他者とのコミュニケーションをとることが出来る。メディア(媒介)といっても、電話のようにリアルタイムで相手に声を届けることは不可能で、あくまで「記録」として残したうえで、だ。(テープに自分の声を録音して会話するといい)
 
 
*    *    *    *

 
 
ジャック・デリダの「脱構築」という思考方法は、浅田彰の紹介によって日本でもかなり馴染みの深いキーワードになった。脱構築が我々に訴えること、それは言語によるコミュニケーションの不可能性に他ならない。デリダはその代表作「グラマトロジーについて」のなかで、ソシュール言語学における音声中心主義を批判した。
音声中心主義においては、人が話すということは、その人の言わんとする真意が「声」によって再現される。たとえば、いま僕があなたの目の前で「この花は美しい」と声に出して発言したら、その発言が今ここにいる僕の発言(僕の真意)として誰も疑わないだろう。リアルタイムで話された言葉は、僕の脳みそ(思考)と直結していて、常に現前的な主体、すなわち肉体のある「僕」の統御下にあり、僕自身が操っている言語である。さらに、それらリアルタイムで話された言葉を、ノートにペンで書き写す行為は同義とされている。いま僕が「この花は美しい」と声に出して発言し、同様に「この花は美しい」とノートに記録することは、両方とも僕の真意としてピタリと一致している…、それが音声中心主義の考え方だが、デリダは「話すこと」と「書くこと」の間には大きな断絶があると言う。
 
「書かれたこと」は「話されたこと」と異なり、常に現前的な主体と離れた場所で他人に解釈されてしまう。
僕が伝えたかったことを文字にしてノートに書いた後、僕がその場から姿を消せば、そこには書かれた文字だけが残り、その文字のご主人様は“本当に僕だったのか”という不確定性が纏わりつく。
今あなたの目の前には、僕の書き残した「この花は美しい」という文字が見えている。あなたはそれを僕の真意として受け取るだろう、「ああ、アイツはこの花を美しいと思っているんだな」と。しかし、そこへ僕本人(肉体)が姿を現して「この花は美しくない」と声に出して言わない保証はどこにもない。
僕があなたの目の前で話した「この花は美しい」という言語は、その瞬間において僕だけの「花の美しさ」であり、僕自身の統御下にあるので、他者には経験できない性質のものなのだ。だが、僕が文字にして書いた「この花は美しい」という言語は、すでに僕の統御下を離れて、誰もが発しうる記号的な「美しさ」として万人に解釈され、世間に流通し始めてしまう。
 
僕達は、書物やテレビなどの記録的媒介から、その人の真意(起源)にたどり着くことは出来ない。
起源、すなわち「一番最初のありのまま」すら、すでに「言葉」によって編まれている存在なのだから、僕達は永遠に物事の一番最初を知ることは出来ない。このようにして、物事の起源そのものを倒錯させていく思考方法こそ「脱構築」である。
情報の記録には、書籍にしろ、テープレコーダーにしろ、電子メールにしろ、必ず何らかの媒介=メディアを必要とする。そして、書かれた文字や録音された声は、僕自身が“本当に言いたいこと”ではない。僕の身代わり=幽霊とでも呼ぶべき見えない存在がそれらの言語を操っている。
 
これらのいずれもが可能とも思考可能とも正しいとも思われない限りにおいて、幽霊について話さねばならず、ひいては幽霊に対して話さねばならず、さらには幽霊とともに話さねばならない。
…それはいつでも、「その亡霊ではなく」 さらに別の者であるかもしれない。いつでも、別の者が嘘をつき幽霊に変装しているのかもしれず、他の幽霊がその幽霊のふりをしているのかもしれない。
これは、いつでもありうることである。もっと先で、われわれは亡霊どうしの社会、あるいは交流について語る予定だが、それというのもつねに一つならず亡霊がいるからである。<マルクスの亡霊たち:ジャック・デリダ:増田一夫訳>

 
ある朝自室のベッドで目が覚めると、僕達は自分が「透明人間」になってしまったことに気がつくだろう。このような状況下で、僕達は自分の意思を伝達するために、可能な限りのメディアに痕跡を残すことになる。
ブログのコメント、匿名掲示板の書き込み、インターネットに散乱する無数のテクスト…。それらを記した「言語の所有者」は、存在しない。いや、あるいはそれらのエクリチュール(書かれた言語)に所有者がいるとしたら、それこそ「幽霊」ということになるかもしれない。
 
―幽霊に実体はない。
幽霊は確かにそこに存在するはずなのだが、我々から幽霊を眼差すことは出来ない。彼らは我々との意思疎通を試みる際に、必ずなんらかのメディアを必要とする。たとえば、心霊写真は肉体(現前的主体)を持たない彼らの、唯一のコミュニケーション方法である。
そして、幽霊の痕跡はある視点においては発見されないが、いつの日か発見され、亡霊のものとして他者へ届くことになる。
 
 
posted by もときち at 09:20 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。