2009年05月11日

世界の覚書

1960年代は、それ以降に生まれてきた我々にとって、ある意味で神格化されている。当時の学生ならば誰しもマルクスを認識しているものであり、近代社会が生み出した知のあり方、資本主義に対しての反抗が、全世界的な学生運動として盛り上がっていたという時代。
もちろんそれは、思想的な大転換を告知したことでも知られている。クロード・レヴィ=ストロースの構造主義があり、ジャック・ラカンの精神分析があり、そして何より日本では80年代初頭のニューアカデミズムブームを用意した、ドゥルーズ、ガタリ、デリダといったポスト構造主義の思想が生まれた時代でもあった。
 
16世紀、それまで離れていた多くの国家・経済圏が結合されて、資本主義という名の世界システムが成立した。近代資本主義は“すべての人間に平等な機会を与える”と言う単純明快なコンセプトに反して、ありとあらゆるところに不均衡と不平等を生んできた。全ての人間は生まれながら不平等に作られているからである。身体的能力、知的能力は明らかに不平等であり、生まれた環境がそれをより一層強めることになるだろう。にもかかわらず、近代世界システムは“誰もが同等の価値を持つ存在”として認められるような社会を目指してきたのだ。
 
資本主義社会は、放っておけば必ず経済的格差へと帰結する。国家は平等性を志向するための装置であり、そのような経済的格差を出来る限り解消するよう、様々な規制を行い、税による再配分を行うのだ。

しかし、90年代からグローバリゼーションという概念が導入されるようになった。各国の境界線がなくなり、それぞれの国家が密接にリンクしながら経済競争をしていく社会。かつての第三世界は、グローバル化により両極に分解してしまった。一方では、中国やインドのように工業化が進み、他方ではアフリカ諸国のように壊滅的状況に陥る。ひとたびグローバル化が始まると、いやおうなしにその流れに飲み込まれ、誰しもその外部にあることは出来ないのだ。
 
 
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資本主義社会こそ、歴史の最後の段階である。
ドゥルーズ&ガタリによれば、歴史のほとんどすべてはコード化と超コード化、そして新しい社会的機械として登場した近代資本主義(脱コード化)というものに括ることが出来るという。近代資本主義(脱コード化)以前の歴史は絶対的な他者、たとえば国王などといった巨大な権力が各人の前に「追いつけないもの」としてそびえたち、彼に対して無限の負債を負う(王様のおかげで僕達は生きられる)ことで社会の安定化を図ってきた。
ところが、近代資本主義は社会に自由競争を取り込むことによって「努力さえすれば王様に追いつける」という幻想が各人に生まれるため、各人の欲望は開放されてしまう。
 
この欲望の開放こそ「脱コード化」である。
 
近代資本主義を構成する要素、貨幣や商品、人間の労働力は、欲望を規制(コード化)するためのものではなく、労働力が生産した商品を、明日の労働力を再生産するために自ら購入するという円環の世界に導くもの、互いの欲望を次なる欲望のために交換する装置なのだ。各人は自分より先行する他者を「追いつき、追いこすべきもの」として設定し、無意識のうちに競争の世界へ導かれていく。
この競争世界の諸元ともいえるのが「父親と息子」の関係である。ドゥルーズ&ガタリは、人間を一定方向に走らせる社会的機械として最初の装置が「パパ=ママ=ボク」の家族であると定義する。
確かに「ボク」はまだまだ無力な存在だけど、いつかはパパに追いつけるはずだし、パパを追い越すことだって出来るんだ!(構造と力) そして、目標を追いこしてしまえば、次は自分が目標とされる番なのだ。
このように、脱コード化の近代資本主義は、最終的に各人を一定方向(円環)に走らせることで社会の安定化を図ってきたのだった。
 
 
posted by もときち at 10:30 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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