2009年04月29日

労働の本質

2つの桶があり、1つの桶は空っぽ、もう1つの桶には水が入っている。
あなたは桶に入った水を空っぽの方の桶に移す。全てを移し終えたら、空っぽになった方の桶に、再び水を移す。あなたは来る日も来る日もこの作業を繰り返す。孤独で、無意味で、永遠に繰り返されるその行いは、決して誰の心にも届くことが無い。
ドストエフスキーは云う。「無意味な労働こそ、究極の拷問である」と。
 
労働における「喜び」とは、自分の行いが誰でもいい“他者に届いている”ということだ。どのような類のものであっても、僕達は“仕事”を通じて他者とコミュニケーションしている。製品工場で機械に部品を取り付ける作業であっても、路地のゴミ拾いをする慈善活動であっても、その行いは必ず“誰かのため”になっているはずだ。そして、あなたの行いに対してポジティブなリアクション(他者からの感謝)があれば、それがどんなに苦痛を伴う作業であっても楽しくなるだろう。
 
 
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近代社会においては、労働者の提供する「労働」には「賃金」という名の価格がつけられており、商品の価値の大きさは、その商品を生産するのにつぎ込んだ人間の「労働量」によって決定する。企業が商品を生産するためには「労働力」が必要なので、資本家は労働者を雇うのだ。労働者は自分が生きていくために必要な賃金と同じだけの価値を、会社という組織の中で生産する。だから、労働者は自由意志で“自分の労働力を売る”ことができる。
このような近代資本主義が発展したのは、生産手段を持たず、自分の労働力を売るほかないプロレタリアという階層が存在したからであり、彼らは、自身の労働力を売って得た賃金で商品を購入することが出来る消費者でもあった。
 
近代資本主義は、労働力が生産した商品を、明日の労働力を再生産するために自ら購入するという円環的システムだ。それは「人間=商品=貨幣」という交換原理のシステムで、そこではまるで人間が生きた貨幣(クロソウスキー)であるかのような錯覚を受けてしまう。
経済人類学の創始者カール・ポランニーは、そのシステムを“悪魔の碾き臼”とした。労働という本来は価格をつけてはいけないものに価格をつけ、労働力そのものを商品にすること(商品にならないものの商品化)は人々を不幸にする。
商品の本質は「再生産」が可能であるということだ。食べてしまった野菜は、また栽培すればよい。 焼失してしまった住居は、また建て直せばよい。だからこそ、商品には価格が設定されている。しかし、労働力そのものは再生産可能であっても、それを持つ人間の生命は有限なのだ。過ぎた時間は二度と戻ってはこない、人生に価格をつけることは不可能ではないのか。
 
仮に人生に価格があるとしたら、僕達一人ひとりが持っている“時間”という資産は、年齢とともに価値が薄れ、死亡した時点で文字通りそれはゼロになる。そして、若年労働者が消費している時間は、人生の中で最も付加価値の高い時期といってよい。20代とは、自分自身という資産をいかに活用し、そこから未来へ向けて、どれだけの幸福を生み出せるか真剣に考えるべき時期なのだ。そのような大切な時間を、好きでもない会社に捧げる必要なんて少しもない。自分の好きなことをすればいいじゃないか! …といった結論に辿り着くのは自然な流れだろう。
もちろん、そこには厳しいルールが設定されていることも忘れてはならない。好きな人生を選択したのは君自身だ。だから将来どのようになっても、その責任は自己責任として、君が引き受けなくてはならない、ということを。
 
 
posted by もときち at 03:12 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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