2009年12月07日

経験のメガネ

カント


遠くからこの写真を見ると誰かがゴルフをしている風景にしか見えないけれど、目を近づけてよおく見ると、それがプロゴルファーのタイガー・ウッズであるとわかるはずだ。タイガー・ウッズは黒人で、プロゴルファーで、いつも帽子をかぶってて…といった「タイガー・ウッズはこれこれこういう人間だ。」という我々の経験に照らし合わせたから、我々は写真に写っている人物がタイガー・ウッズだとわかったのである。
ところが、ここで「あなたはタイガー・ウッズさんですか?」と声に出して問い掛けても反応がないと、あなたは「本当に彼はタイガー・ウッズなのか?」と疑いだすことになるだろう。彼があなたの問い掛けに反応しない理由。それは彼が生身の人間ではなくラスベガスのマダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だからである(笑)
 
これらのことが意味するのは、我々人間は事物そのものを認識しているのではなく、目に映っている現象を見ているにすぎない。目に映っている現象から物事を判断しているにすぎないということだ。
このタイガー・ウッズの写真が、マダム・タッソー蝋人形館に展示されている蝋人形だと認識しているのは、実際に写真撮影をした僕と蝋人形館に勤務している従業員くらいのものだろう。つまりこの段階では、僕と従業員の経験が共有されていることがわかる。
僕と従業員は「経験というメガネ」で、この写真を判断している。
 

カント

 
では、この写真をもっと遠くから見るとどうだろうか。
僕はもちろん、蝋人形館の従業員にも“誰かがグリーン上にいる写真”という程度の認識しかできないはずだ。つまりこの段階では、僕も、蝋人形館の従業員も、そしてこのブログを読んでいるあなたも、三者の経験は異なるにも関わらず、誰かがゴルフをしている写真という認識は共有されているのだ。哲学者イマヌエル・カントは、上記のように各人の経験が異なるにも関わらず、すべての人間に共有されている認識、それこそ普遍的なもの、純粋な認識だと定義した。
 
我々は物事を目に映っている現象で判断している。現象とは時間と空間によって生成されるものだ。リンゴが樹から落ちるという現象は、落ちる時間と落ちた空間によって生成されている。ようするに、時間と空間という形式は人間なら誰でも共有している認識というわけだ。
これを人間にあらかじめ備わっている認識=ア・プリオリ(先天的認識)と呼ぶ。
ア・プリオリなものとは、いつの時代の、どのような民族にも当てはまり、それは人間が生まれた時点で既に備わっているもの、経験が無くても、誰にでも認識できるものだ。たとえば「人を殺してはならない」という考え。どんなに気の狂った犯罪者でも、どんなに考えの偏った民族集団でも、人を殺すことは、なにかいけないことではないか…という「呼び声」が心の奥底から聴こえてくるはずだ。あなたがいくら悪徳の限りを尽くしても、この呼び声は、静かに、静かに心に響いてくる。もちろん、この呼び声は動物には聴こえない、我々人間のみが聴くことのできるものである。もし何かの認識によって行動するのなら、その認識があなた一人ではなく、あらゆる人間に当てはまる認識であるかを確かめること。カントは我々に「経験のメガネ」の外し方を教えてくれた、偉大な哲学者であった。
 
 
―先天的認識を探究したカント。
しかし、実際の彼は自分の判断力を他人の悟性に照らし合わせて判断することを無用とみなすエゴイストであったし、ようするに彼は他人の意見に対して聞く耳を持たなかった。まあ、有能な人間は誰しも自分の意見に絶大な自信を持っており、カントもまた例外ではなかったということだろう。
 
 
posted by もときち at 14:45 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月10日

哲学のすすめ

 
必読書150 [単行本] / 柄谷 行人, 岡崎 乾二郎, 島田 雅彦, 渡部 直己, 浅田 彰, 奥泉 光, スガ 秀実 (著); 太田出版 (刊)
大学時代、学校の授業があまりにもつまらないので、講義をさぼって家で読書ばかりしていたのですが、当時の僕は、毎月「群像」やら「文學界」やら文藝誌を欠かさず読んでいた、いわゆる「文学おたく」でして、あの頃は(自分で言うのもなんだけど)一番頭に脂がのっていた時期だったと思います。

僕の「OS」は、そのほとんどが大学時代の読書習慣により構築されたようなもので、そういう意味で、つまらない講義を提供してくれた大学の講師には感謝しなくてはいけないのかもしれませんね。


どこかの本に書かれていたのですが「OS」という表現は言い得て妙です。ものすごいプログラミング技術を持ってるのに、なんだか要領の悪い人とか、悪くいえば「お勉強はできるけど頭が悪い」とか「一流大学を出ているのに仕事が出来ない」といった人達がいますね。
彼らが体現しているのは、我々が学校で習う数学や英語、あるいはプログラミングの技術といったものは、結局のところ「アプリケーションソフト」に過ぎないということです。どんなに技術を高めたところで、OSがなければアプリケーションは起動しませんよね。小手先の技術ばかりが研磨されていても、肝心の「ものの考え方」が育まれていないと本質を捉えることはできないということです。何か物事を解決しようとするのなら、あるいは何か新しい作品を創作しようというのなら、そのバックボーンとなる「ものの考え方」を身につけていなくてはいけない。それがOSです。

さてさて、僕のバックボーンはほとんどが西洋哲学と西洋文学です。現在の僕では読めるかどうか自信がありませんが、一時はアンチ・オイディプスや千のプラトーなんかも熱心に読んでいたくらいの哲学かぶれで、哲学・文学の水先案内人といえば(当時は)文壇で活躍していた柄谷行人や浅田彰、福田和也といった批評家でした。
なぜこんな話をするかというと、イギリスに留学している僕の弟のことです。最近弟も文学や哲学に興味を持ったようで、彼がイギリスへ旅立つ前に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を持たせてあげたのですが、案の定“ハマった”らしい。ところが哲学となると、いったいどこからどう手をつけていいのか分からずにいる。可哀想に、彼は新潮文庫から出ている「まんがで読破シリーズ:マルクスの資本論(笑)」から始めてしまったというのです。

僕も学生時代は哲学という難解なジャンルにどうコミットしていったらいいのか悩んでいましたが、そんな時は良いガイド、すなわち「評論家」に出会うことが一番手っ取り早いんですね。一人のお気に入り作家を探すよりも、一人の信頼できる批評家、自分と嗜好の似た評論家を探した方がいいということです。
そんなわけで、この「必読書150」は、柄谷行人、浅田彰など著名な評論家が集結しているので、僕も学生時代に随分とお世話になりました。
カント、ヘーゲル、ハイデガー、最近のものではフーコー、ドゥルーズ、ラカンと容赦ない名前が連なりますが、自分のOSをバージョンアップさせたい方には必読な古典がラインナップされています。

われわれは今、教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうために「教養」がいるのだ。カントもマルクスもフロイトも読んでいないで、何ができるというのか。わかりきった話である。われわれはサルにもわかる本を出すことはしない。単に、このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである、というだけである。<柄谷行人:本書より>

posted by もときち at 09:34 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月14日

世界劇場へようこそ


もし人間というのが永遠に死なない存在だとしたら、いつまでたっても消滅しないで、歳をとるということもなくて、この世界でずっと永遠に生きていけるものだとしたら、人間はそれでもやはり、私達が今こうやっているみたいに、一生懸命あれこれものを考えたりするのかしら?
つまり、私達は多かれ少なかれいっぱい物事について考えたりするでしょう。哲学とか、心理学とか、論理学とか。あるいは宗教、文学。そういう種類のややこしい思考とか観念とかいうものは、もし死というものが存在しなかったら、あるいはこの地球上に生じてこなかったんじゃないかしら?
―つまり、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするのかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、「時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや」ってことになるんじゃないかな。<ねじまき鳥クロニクル:村上春樹>

 
迫りくる「死」に対する一般的防衛法は、出来るだけそれを忘れること、自分が死ぬという事実を出来るだけ想像しないようにすることだ。
ともすれば、人間が形作る社会、科学、文化などの諸制度は、根本的には「死への不安」を隠蔽するための無意識から発明されたものだと解釈することができる。「死」は人生を限定された時間にする。それは人生が価値ある一瞬の連続になるということである。
 
1909年、彼は弱冠20歳にして「死」と向き合うことになった。マルティン・ハイデガー。若き日の彼を数回に渡り襲った心臓病は、彼の残りの人生に「死」の恐怖感を植え付けた。本を読んでいる時も、ペンを握っている時も、或いは眠っている時でさえも、彼はいつ死ぬか分からない不安に襲われ、いかなる時も「死」と同伴しながら道を歩まねばならなくなった。足元がグラグラした。自分の存在が今にも消えてしまうかもしれないという不安に揺らされて。
20世紀最大の哲学者ハイデガーの存在哲学、彼の定義する「死」は、このような背景のもと生まれる。そして、ハイデガーの代表作である『存在と時間』は、後に実存哲学、構造主義、ポスト構造主義などの哲学界ばかでりでなく、文学や言語学といった様々な分野に多大な影響を与えた。
 
存在とはなにか。この命題は哲学においてはるか昔から問われ続けてきたものだ。ハイデガーの存在論は難しい。まず、その使われている語句の意味についても、予備知識なしには理解不能といっていいだろう。たとえば、ハイデガーにおいて「世界」とは、一般的に理解されている地理的な、或いは空間的な世界(宇宙)のことではない。『存在と時間』が語る「世界」は、存在者の集合体でもなく、存在者の次元にあるものでもなく、存在の次元に属しているものだ。(「存在者?存在の次元?いったい何のことやら・・・」 と、首をかしげるのが普通です。安心してください。)
たとえばリンゴは「存在者」だ。狭義の意味で存在者とはようするに「モノ」のことである。つまり、物質や動物。物質に「者」がつくのはおかしいと思われるかもしれないが、ここでは物質・動物などの「モノ」を総合して「存在者」と解釈するしかない。
リンゴは存在者、だからリンゴは存在する。丸くて赤い、美味しいリンゴがあなたの目の前に存在している。しかし、リンゴの存在はリンゴではない。リンゴならばあなたの目で視ることが出来るが、“リンゴの存在”をあなたの目で視ることは適わない。あなたはリンゴは所有し、保存することが出来るが、あなたは“リンゴの存在”を所有し、保存することは出来ない。だから、失いようがない。リンゴを失くしてしまったと表現は出来るが、“リンゴの存在を失くしてしまった”と表現は出来ないだろう。
 
ちょっと待ってほしい。だとすれば、人間は自分の存在すら所持していないことになるではないか。
…そう、人間は誰も自分の存在を所持などしていない。それはただそこに存る。ハイデガーは、人間のことを「現存在」と語る。前述したように、人間は存在者のなかに含まれるのであり、同時に現存在は特殊な存在者でもある。なぜなら現存在(人間)には、我々人間とその他の全ての存在者(モノ)をその存在において理解することが出来るからだ。
ハイデガーの『存在と時間』において、現存在(人間)の分析は、世界内存在に定位して遂行される。人間は世界内存在である。ここでいう「世界」とは、先ほども述べたとおり、一般的に理解されている空間的な世界ではなく、存在に囲まれた過去・現在・未来を含む次元のことであり、その内部外部的環境に関わりを持つ(ゾルゲ)ことが出来るのは世界内存在である人間だけだ。そして、ハイデガーの哲学が目指しているのは、存在が時間から理解されるだろうという“証明”である。
 
 
この世界は劇場だ。人生は演劇であり、人間は役者である。シェイクスピアはそう言った。この「世界」をひとつの舞台とするならば、役者である人間は、あるときは働くことを演じ、あるときは泣くことを演じ、そしてあるときは老いることを演じる。このように人間は様々な役割を演じている世界の内の存在にすぎない。そして世界は、人間にとって、様々な役割と意味が混じり合った巨大な秩序体として成立している。
 
・ そして今、あなたはリンゴを食べた(役割を演じた。)
 
その役割は未来永劫、もう二度とめぐってくるものではない。いまこの時間、この場所で、リンゴを食べるあなたという存在は、地球上でこれから何千年、何万年の時間が流れようとも、二度と生まれることはない奇跡的な場面なのだ。
この瞬間、毎秒毎秒「存在は死んで」いく。「死」とは、人間が年老いて、心臓が停止するとか、生命活動が途切れることだとか、普通はそう解釈されている。しかし、このように解されると、ハイデガーの死の分析はまったく理解できないことになる。ハイデガーは、人間は 「既に死に至っている」 存在だと言う。あの瞬間、リンゴを食べるあなたの存在が死んでしまったように(二度と生まれてこないように)、人間は毎秒毎瞬その存在を死なせながら生きているのだ、と。 死は生の現象そのものである。
 
流れる音色、ハーモニー、美しい音楽。
もちろんそれが美しいと感じられるのは、ひとつひとつの「音」に対してではなく、音の連なり、時間の流れに対してである。前の音が消え、次の音が現れる、…とても不思議だ。
音が在るのは消えるからであり、音は在ると同時にまた無いのだ。連なる「音」は、どの瞬間もすべてが唯一無二。どの瞬間もかけがえなく運命的であり、独自のもの、すべてがクライマックスであり稀有な現象である。在ると同時に無い(消えていく)存在たち。生に含まれる死。どのような事物も、その中にそのものを否定する事物を含んでいるということだろう。
柵に囲まれた公園。入口から入って、園内を散歩したら出口へと足を向ける。ひと回りして、入った場所へ戻るだけのこと。 …そうだった、出口は確かにさっきまで入口だったのだ。
 
 
だから行こう、我々が開かれたものを見るために
我々が固有なものを、どんなに遠くとも、探し求めるために
ひとつのことは定まっている
真昼であろうと、真夜中に至ろうとも、常にひとつの尺度が、全てのものに共存している
しかし各人にもまた固有のものが割り当てられている
各人は彼が行きうるところへ行き、来うるところへ来るのだ

<パンと葡萄酒:ヘルダーリン>

posted by もときち at 21:42 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月18日

アダルト経済盛衰記

インターネットの普及により経済のグローバリゼーションが行われていく。そして、グローバリゼーションはアダルト業界においても例外ではなく、現在においては国境を越えたセックスの取引がますます容易になりつつある。アダルト市場は他の市場と違って、性欲という人間の根源的欲求に基づくものであり、景気の良し悪しに関わらず常に一定の需要があると言われている。けれども、リーマンショック以降の世界的な不況は、どうやら先進諸国のアダルト市場にも大きな打撃を与えているようなのだ。
たとえば、米成人向け男性誌『ハスラー』を創刊したラリー・フリントと、『Girls Gone Wild』 というアダルトDVDシリーズのクリエイターであるジョー・フランシスは、低迷するアメリカの経済が、われらアダルト業界に水を差したとして政府に50億ドルの財政支援を求めたりした。政府がGM・クライスラーなど自動車のビッグスリーに財政支援を行うのに対し、「自動車などなくても国民はやっていけるが、セックスなしではやっていけない。議会が米国の性的欲求を回復させるべき時だ。」と、彼らは訴えている。まあ、確かにおっしゃる通りなんだけど。
 
以前から「性」は、ひとつのマーケットを形成してきた。
たとえば、途上国の女性は就業機会に恵まれず、生活していくだけに十分な収入を得ることが出来ない。そこで、彼女達は唯一の商品である「自分の体」を売ってお金を稼ぐという市場に参入することになる。彼女達は、売春によって得た収入で家族や子供を養っていくのである。
そして、この現象はもはや途上国だけの問題だけではない。昼は会社でパソコン仕事の事務員をやりながら、夜はキャバクラでホステス、あるいはデリヘルで風俗嬢として働いている…、そんな既婚女性が日本でも増えているからだ。若くして離婚したシングルマザーなら尚更のこと。彼女達は良心の呵責に苦しみながらも、子供の養育費を稼ぐために、仕方なく風俗産業に参入していくのである。もちろん、こうした経済的理由を持つ女性がマーケットに新規参入してくると、以前からキャバ嬢・風俗嬢として働いている女性にしたら競争相手が増えてたまったもんじゃない。
 
風俗店も極めて厳しい状態にある。都内のあるデリヘル経営者は、「週末でもまったく電話が鳴らない。本当に静かだ。昨年もひどかったが、今年はもっと悪い。」と嘆く。廃業する業者や女性従業員も多いと聞く。また、デリヘルやソープに職がない女性が殺到しているらしく、あるデリヘル経営者が言うには、「広告を出さなくても女の子が問い合わせてくれるので楽だが、本当に何にもできない、フェラチオの経験もない子までいるので、ちょっと困る。」とのこと。<不況に見るフーゾクの価格暴落今昔:メンズサイゾーより>

 
さらに、グローバリゼーションの波がこの業界にも襲いかかる。日本のアダルト市場に外国人風俗業者が参入してくるわけだ。そして、我が国はデフレ不況の真っ只中である。銀座の高級クラブに高いお金を払うより「出来るだけ値段の安い外国人女性のお店に通った方がお得だ。」という男性が増えてくるのは当然の流れなのだ。
キャバクラ・風俗の業界にも波及するグローバリゼーション。そう遠くない未来、もしかしたら日本人女性が中国へ出稼ぎ売春に行くような時代が到来してしまうかもしれない。
 
 
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2009年12月20日

FREE


フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 [ハードカバー] / クリス・アンダーソン (著); 小林弘人, 小林弘人 (監修); 高橋則明 (翻訳); 日本放送出版協会 (刊)
プラハにある売春宿「ビッグ・シスター」は、売春婦と無料でセックスすることが出来るという、夢のようなサービスを提供していることで知られる。
 
無料の風俗というのは世界初の試みだが、実はその売春宿、個室に何十台ものカメラが設置されている。男性客は自分の行為が撮影されることを承諾したうえで、「ビッグ・シスター」を利用しなければならないのだ。
そして、撮影された動画はインターネットで配信される。もちろん、動画閲覧は有料である。

 
グーグルはアメリカでもっとも儲かっている企業のひとつだし、リナックスの生態系は300億ドル産業だ。ここにフリー(無料)のパラドックスがある。料金をとらないことで、大金を稼いでいる人々がいるのだ。すべてとは言わなくても、多くのものがタダになっていて、無料か無料同然のものから一国規模の経済ができているのだ。それはどのようにして起こり、どこへ行こうとしているのだろうか。これが本書の中心となる疑問だ。
この世にタダのランチはない。実際にランチを食べた者がお金を払わないとすれば、それは結局、その人にタダでランチを提供しようとする誰かが払っているにすぎないのだ。
人々はときどき、こうして間接的に商品の代金を支払っている。フリーペーパーは広告収入で運営されていて、それは広告主である小売業者のマーケティング予算から出される。スーパーマーケットの無料駐車場は、商品から利益がまかなわれているし、無料サンプルのコストは、その商品を買う客によってカバーされている。<本書>

 
あなたの身近な問題。
「アメブロ」や「FC2ブログ」といったブログサービスを僕達に無料提供することで、それらを運営している会社には、いったいどのようなメリットがあるのだろう。
答え。無料ブログには(独自ドメインでない限り)必ずと言っていいほど「広告」が貼り付けられている。僕達の書いたブログに第三者が訪問して、彼らが広告をクリックした場合、対価報酬がブログ運営元の会社に支払われるような仕組みになっているのだ。だから、ブログサービスを提供している会社は、もっとももっと自社のブログで記事を書いてほしいと願っている。記事が増えれば増えた分だけ、検索エンジンにヒットして、閲覧−広告クリックの可能性が増えるのだから。
 
世界経済において、これまでにないほど知的財産の価値が重んじられています。昔に比べて共産主義者の数は減りましたが、ミュージシャンや映画製作者やソフトウェア制作者のやる気を失わせようとする新しい今日的共産主義者が、さまざまな姿であらわれているのです。<ビル・ゲイツ>

自由と無料にまたがる特許権や著作権などの知的財産権を、フリーが攻撃していると言う意見がある。それを唱える人は次のように考える。人々は報酬がなければものを捜索しようとしない、と。

 
クリエイターが、世の中をアッと驚かす新製品や新技術を開発するのは、実は「お金」のためなんかじゃない。彼らは、自分の創作した作品が人々を驚かすことに、何にもかえがたい喜びを感じる生き物なのだ。
そして、彼らはその先に在る名声を(無意識にも)求めている。この素晴らしい作品を世に送り出したのは「この俺」だということを、あなたがたに知っておいてほしい、と。
いや、俺は名声なんて求めていない。創作することが楽しいから創作しているだけだ。…本当に?
創作することが楽しいだけなら、なぜそれを世に送り出す必要があるのだろう。記事を書くことが楽しいだけなら、日記帳やチラシの裏に書いて、押し入れにしまっておけばよいではないか。わざわざブログとして公開しているのは「自分を知って欲しい」という欲求以外のなにものでもないのだ。
 
 
posted by もときち at 01:29 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月27日

電気自動車の未来

オバマ大統領の掲げた「グリーン・ニューディール」というビジョンの最大の目玉は『スマートグリッド』だと言われている。スマートグリッド(次世代送電網)とは、ITと超電導送電技術を利用した効率の良い(スマートな)送電網のことで、電力の流れを供給側・需要側の両方から制御し、最適化できるという革新的な仕組みである。よく言われているように、次世代エネルギーで主役となるのは「電気」であり、とくに効率性と環境負荷の少なさ、実現性などを考えると原子力発電は圧倒的に優位とされている。よって、スマートグリッドで送電する電力の比重を原子力発電に移行していくことも当然の流れで、いま、原子力発電という分野は世界中の投資家からも大きな注目を集めているのだ。
ところで、スマートグリッド化を進めることによるメリットのなかで「エコカーのインフラ整備」というものを挙げられるが、これには、既存の自動車業界のビジネスモデルを破壊しかねない強力なインパクトがある。
 
ガソリン自動車が世界の主流になったのは、20世紀、アメリカにおいてタダ同然の安価な原油が大量に調達できたからという経済的背景があった。だがオイルショック以降、各国は石油資源の浪費を抑制して省エネ型の経済社会へと転換していく必要に迫られる。しかし、アメリカは依然として膨大な石油エネルギーの浪費型経済に停滞しており、だからこそ彼らはクウェートの石油を必要としたのである。
―そして今、この流れが断ち切られようとしている。電気自動車だ。今の主流はプリウスなどに代表されるハイブリッドカーだが、結局のところ、それはガソリン自動車から電気自動車への「中継」でしかない。
あるいは、そこには次世代カーの本命と言われていた「水素カー」の存在があった。しかし、これらの展望はGMやクライスラーの破綻によって崩れ去り、世界の自動車トレンドは、これから電気自動車へとシフトするのである。
 
電気自動車にはガソリン自動車にはない優れた性質がある。ある意味で、それは「電池」と「モーター」と「制御システム」の3点があれば稼働してしまう家電製品みたいなものなのだ。テレビや冷蔵庫のように誰が組み立てても、目立った性能の差は出てこなくなり、日本の自動車メーカーの得意とした「すり合わせ技術」の価値がなくなってしまう。車体が軽くなるうえに故障も少なくなる。なにより、開発に莫大な費用と時間がかかった「エンジン」も不要になってしまう。ガソリン自動車においては、エンジンとその制御装置の技術は「ブラックボックス」であり、メーカー以外はその内部を知ることが出来ない…、 ―それがメーカーの「強み」であったはずなのに、電気自動車の時代においてはもう「強み」でなくなってしまう。これはトヨタなどの既存メーカーにしたら一大事である。
 
そんなわけで、今のところトヨタの未来は暗い。リーマンショック以降、トヨタの業績が悪化したのは利益の大半を稼いでいたアメリカ市場が低迷したことにある。そして、ここにきて自動車ビジネスそのものの歴史的大転換という大きな試練にさらされているのである。
世の中に電気自動車というものが存在せず、ガソリン自動車だけであったなら、中国などの国々がトヨタ・日産などの日本車メーカーに追いつくことは永遠に不可能だったかもしれない。しかし、不幸にも(?)これからの主流は電気自動車なのだ。トヨタが誇るハイブリッドカー「プリウス」も、結局のところはガソリン自動車であり、電気自動車にはなりえない。電気自動車の心臓部とも言える「電池」について、トヨタがどこまで喰らいついていけるかがカギである。残念ながら「電池」の技術についてはトヨタも日産もお手上げなのだけれど。
なにはともあれ、未来の電気自動車は、パソコンのように安く大量生産することが可能になるので、日本車メーカーの優位性は低下していかざるを得ないようだ。日本車メーカーが、いまの規模を維持しながら事業をシフトさせていくにはどうすればいいのか。かつてない難題となった。
 
 
posted by もときち at 21:48 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年12月28日

コード化=超コード化=脱コード化


構造と力―記号論を超えて [単行本] / 浅田 彰 (著); 勁草書房 (刊)
僕が生まれた時代、1980年代初頭に「ニューアカデミズム」という一大ムーブメントがあった。1983年当時、京都大学の助手であった浅田彰が著したポスト構造主義に関する専門書『構造と力』が、哲学書としては異例のベストセラーとなり、彼の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて「ニューアカデミズム」と名付けたのである。
『構造と力』では、フーコーやラカン、レヴィ=ストロースといった難解な現代思想が、まるでチャート式参考書のように、これ以上ないくらいにわかりやすく解説されている。本書のクライマックスは、なんといってもドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から抽出した“コード化”のくだりだろう。


言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇としてとらえねばならない。それは、錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである。
…さて、文化が多少とも安定した構造として存立するためには、この垂直の力が社会全体に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することが出来るだろう。以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、 (1) コード化−原始共同体、(2) 超コード化−古代専制国家、(3) 脱コード化−近代資本制の三段階の定式化を行うことにする。<構造と力:浅田彰>


我々人間の欲動が制御され、そこに諸々の文化が形成されていく過程には「コード化、超コード化、脱コード化」という3つの段階がある。
たとえば、動物は本能によってあらかじめ欲望の方向性がどこに向かうべきかを決定づけられているが、人間は違う。人間は自己のエネルギーをどこに向ければよいのかわからない状態で生まれてくる。
これは、ドゥルーズ=ガタリの欲望史観に大きな影響を与えたラカンの考え方だが、このような拡散する人間の欲動を一定方向に導くこと、それが「コード化」である。


万古の昔から所定のルール通りに器械的な回転を続ける一般交換の円環。これこそレヴィ・ストロースの言う冷たい社会を支えるメカニズムである。我々は、しかし、モースにあってレヴィ=ストロースが無視している側面に注目したい。それは微視的なダイナミックスの分析とも言うべき側面である。
モースは、贈物には特殊な力が宿っていて受贈者に返礼を強いるのだという思考形式をとり出し、何度も問題にしている。実際、はじめから閉じた円環をふかんするのではなく、あくまでも一方的な行為としてのひとつの贈与に注目してみよう。すると、この贈与が受贈者をいわば債務者の地位に落とすことがわかる。
…このようにして力は社会の全表面に拡がり、ひとりひとりにルール通りの行動を課していく。本能による規制を失ってありとあらゆる方向へ走り出そうとしていた欲望の流れに対して、コード化が行われるのである。<同>


しかし、歴史上において次に「専制君主機械」と呼ばれるシステムが登場する。
専制君主機械は古代国家、すなわち原始共同体に根付いたコードを一挙に取り払い、一切の剰余価値は「王」に帰属し、次に「民」に贈与されるものだという図式を作り上げる。つまり、民は王に対して永遠の負債を負うことになるわけだ。これが「超コード化」、すなわち「王」を頂点とする秩序によって社会の安定が保たれるシステムである。


重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制するというこの新しい体制のメカニズムを「超コード化」と呼ぶことが出来るだろう。さて、このメカニズムはあの力をどのように作動させているのだろうか。ここで我々は、各人が絶対的債権者としての王に対して無限の負債を負うという構図を見出すことができる。今や、王こそがはるか高みからピラミッド全体を吊り支えてくれる原点となり、終には各人の存在そのものが王の賜物であるとされるにいたるからである。何としても埋めようのないこの負債がシステム全体を金縛りにして安定させる。これこそ超コード化のメカニズムの働きである。<同>


そして今、我々が生きる近代資本制の社会は「脱コード化」と呼ばれる時代にある。ここでは既に古代専制国家の「王」のような絶対的債権者は存在しない。では、この脱コード化の社会において秩序を生み出すのはいったい何者であるのか? それは「貨幣」である。
超コード化の社会はピラミッドの頂点に「王」が君臨し、円錐型の秩序を形成していた。一方、脱コード化の社会においてはピラミッドの頂点に君臨するのは「貨幣」ではない。貨幣は「頂点」と「世俗」の間をぐるぐると、めまぐるしく回転運動を続ける存在である。


貨幣はたえず再投下されて商品に化身し、売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり、神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字通り死に金にすぎないのである。
…注目すべきは、こうした運動への誘導が、超越的・絶対的な中心の媒介によってではなく、あくまでも内在的・相対的な形で行われるということだ。各人は自分に先行する者のうち手近なひとりを媒介として選ぶことが出来る。それをモデルかつ障害物として追いつき追いこそうとすることが、彼を自然に競争過程へと導いていく。そして、媒介を追いこしてしまえば、今度は自分が媒介とされる番というわけだ。<同>


もちろん「手近な媒介」というのは、生まれた子供が最初に追いこそうとすべき存在、すなわち「父親」である。親の役割は、脱コード化の社会における競争過程への第一の誘導装置なのだ。しかし、若者はいずれ親を追いこし、新たなる媒介を発見する。そしてまた彼は際限なき競争に駆り立てられるだろう。一流大学に入り、一流企業に入り、課長になれば次は部長に、部長になれば次は取締役に…。回転する回し車のなかで走り続けるネズミのように、もっと多くの貨幣を、もっと高い理想を追い求めようとするのだけれど、どんなに多くのものを手に入れても我々の欲望が満たされることはない。それが現代人の姿である。

posted by もときち at 10:29 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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