2009年06月02日

幽霊の誕生

カフカの「変身」で、グレーゴル・ザムザはある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気がついた。同じように、僕達はある朝自室のベッドで目が覚めると、自分が「透明人間」になってしまっていることに気がつくだろう。ただ実体が透明で目に見えないというだけでなく、存在そのものの認識がされない「透明人間」なのだ。その場所、その時間、世界から自分の存在そのものが消えてしまったということ。
電話がかかってきたので、どうにかして応答しようと受話器をとるのだけれど「声」が出ない。しかし、試行錯誤のすえ、僕達はいくつかの方法にたどり着く。
 
1.声は出ないが声の録音ができる。
2.ペンを使って文字を書くことができる。
3.写真・動画にうつることが出来る。
 
なんらかのメディアに、自分の行動を記録として残すことが可能なのだ。
その記録を駆使して、僕達は透明人間でありながら他者とのコミュニケーションをとることが出来る。メディア(媒介)といっても、電話のようにリアルタイムで相手に声を届けることは不可能で、あくまで「記録」として残したうえで、だ。(テープに自分の声を録音して会話するといい)
 
 
*    *    *    *

 
 
ジャック・デリダの「脱構築」という思考方法は、浅田彰の紹介によって日本でもかなり馴染みの深いキーワードになった。脱構築が我々に訴えること、それは言語によるコミュニケーションの不可能性に他ならない。デリダはその代表作「グラマトロジーについて」のなかで、ソシュール言語学における音声中心主義を批判した。
音声中心主義においては、人が話すということは、その人の言わんとする真意が「声」によって再現される。たとえば、いま僕があなたの目の前で「この花は美しい」と声に出して発言したら、その発言が今ここにいる僕の発言(僕の真意)として誰も疑わないだろう。リアルタイムで話された言葉は、僕の脳みそ(思考)と直結していて、常に現前的な主体、すなわち肉体のある「僕」の統御下にあり、僕自身が操っている言語である。さらに、それらリアルタイムで話された言葉を、ノートにペンで書き写す行為は同義とされている。いま僕が「この花は美しい」と声に出して発言し、同様に「この花は美しい」とノートに記録することは、両方とも僕の真意としてピタリと一致している…、それが音声中心主義の考え方だが、デリダは「話すこと」と「書くこと」の間には大きな断絶があると言う。
 
「書かれたこと」は「話されたこと」と異なり、常に現前的な主体と離れた場所で他人に解釈されてしまう。
僕が伝えたかったことを文字にしてノートに書いた後、僕がその場から姿を消せば、そこには書かれた文字だけが残り、その文字のご主人様は“本当に僕だったのか”という不確定性が纏わりつく。
今あなたの目の前には、僕の書き残した「この花は美しい」という文字が見えている。あなたはそれを僕の真意として受け取るだろう、「ああ、アイツはこの花を美しいと思っているんだな」と。しかし、そこへ僕本人(肉体)が姿を現して「この花は美しくない」と声に出して言わない保証はどこにもない。
僕があなたの目の前で話した「この花は美しい」という言語は、その瞬間において僕だけの「花の美しさ」であり、僕自身の統御下にあるので、他者には経験できない性質のものなのだ。だが、僕が文字にして書いた「この花は美しい」という言語は、すでに僕の統御下を離れて、誰もが発しうる記号的な「美しさ」として万人に解釈され、世間に流通し始めてしまう。
 
僕達は、書物やテレビなどの記録的媒介から、その人の真意(起源)にたどり着くことは出来ない。
起源、すなわち「一番最初のありのまま」すら、すでに「言葉」によって編まれている存在なのだから、僕達は永遠に物事の一番最初を知ることは出来ない。このようにして、物事の起源そのものを倒錯させていく思考方法こそ「脱構築」である。
情報の記録には、書籍にしろ、テープレコーダーにしろ、電子メールにしろ、必ず何らかの媒介=メディアを必要とする。そして、書かれた文字や録音された声は、僕自身が“本当に言いたいこと”ではない。僕の身代わり=幽霊とでも呼ぶべき見えない存在がそれらの言語を操っている。
 
これらのいずれもが可能とも思考可能とも正しいとも思われない限りにおいて、幽霊について話さねばならず、ひいては幽霊に対して話さねばならず、さらには幽霊とともに話さねばならない。
…それはいつでも、「その亡霊ではなく」 さらに別の者であるかもしれない。いつでも、別の者が嘘をつき幽霊に変装しているのかもしれず、他の幽霊がその幽霊のふりをしているのかもしれない。
これは、いつでもありうることである。もっと先で、われわれは亡霊どうしの社会、あるいは交流について語る予定だが、それというのもつねに一つならず亡霊がいるからである。<マルクスの亡霊たち:ジャック・デリダ:増田一夫訳>

 
ある朝自室のベッドで目が覚めると、僕達は自分が「透明人間」になってしまったことに気がつくだろう。このような状況下で、僕達は自分の意思を伝達するために、可能な限りのメディアに痕跡を残すことになる。
ブログのコメント、匿名掲示板の書き込み、インターネットに散乱する無数のテクスト…。それらを記した「言語の所有者」は、存在しない。いや、あるいはそれらのエクリチュール(書かれた言語)に所有者がいるとしたら、それこそ「幽霊」ということになるかもしれない。
 
―幽霊に実体はない。
幽霊は確かにそこに存在するはずなのだが、我々から幽霊を眼差すことは出来ない。彼らは我々との意思疎通を試みる際に、必ずなんらかのメディアを必要とする。たとえば、心霊写真は肉体(現前的主体)を持たない彼らの、唯一のコミュニケーション方法である。
そして、幽霊の痕跡はある視点においては発見されないが、いつの日か発見され、亡霊のものとして他者へ届くことになる。
 
 
posted by もときち at 09:20 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月04日

給与という負債

ビジネスは経営者と社員の交換関係によって成り立っています。経営者に与えられた使命は「会社に利益を生みだすこと」です。利益は差異性によってのみ発生するもので、そのような差異性を生み出す源泉として経営者は労働者を雇う必要があります。ですから、ある意味で社員は自分の「労働力」を会社に売っているのであり、その交換報酬として給料を受け取っていると言えます。( ※ 経営者と資本家とでは種類が違いますが、ここでは「経営者=資本家」として話を進めていきます。)
さて、労働者のなかには「管理職」という特別な地位を持った者も存在します。管理職は自分の部下達を評価する立場にあり、以前は彼らも「評価される側」に立っていた肩書きのない労働者でした。そして、労働者の管理・育成という業務こそ共通すれど、経営者と管理職は似て非なるものです。
 
経営者と管理職の違いは何か。それは“自分以下の社員に与えるものがあるか、ないか”の違いと言ってよいでしょう。ビジネスは経営者と労働者との交換関係で成り立っていると書きましたが、経営者は会社の財産を自分の所有物と考えており、その中から必要な分だけを社員に「給与」している者です。この場合、管理職も経営者側から給付を受けている「労働者側」の立場であることがわかるでしょう。
雇われている社員は、給料を受け取ったら「労働」でお返ししなくてはいけないのですが、彼らは受け取った給料分だけピッタリと経営者に「返礼」できるわけではありません。不可分なく行う交換を「等価交換」といいますが、ビジネスの現場において「給与」と「労働」の等価交換はまず不可能なものでしょう。相手との対等な関係を意識すると「同等」か、もしくは「それ以上」の返礼をして、始めて受贈者(労働者)は安心を得ることが出来るのですから。
経営者は社員に金銭を「贈与」する。そして社員は「本当に会社から与えられた分だけ自分は働いているのか?」と、常にプレッシャーを感じながら労働します。他人から親切を受けた弱者がある種の「屈辱感」を抱くように、管理職を含む全社員は、いつも経営者に対して「負い目」を感じているもので、その負債を返済するように彼らは労働に駆り立てられるのです。
 
給付はほぼ常に、気前よく提供される贈り物や進物というかたちをとっている。さらに交換(つまり社会的分業そのもの)の必要形態にこのような性格を与えた多様な原則をすべて述べたいのだが、ここではその1つについてのみ深く考察しよう。
それは、未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務付ける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのかという問題である。<贈与論:マルセル・モース>

 
人類学者マルセル・モースは、贈与(相手に何か贈り物をすること)には特殊な力が宿っていて、それは受け取った側に返礼を強いる効果があるものだと説きます。
つまり、経営者は社員に給料と言う負債の烙印を押しつけ、債務者となった社員は、今度は自分が贈与すること(労働すること)で、はじめて身に帯びた負い目の呪いを「祓う」ことが出来るわけです。
 
世の中には太っ腹な、気前のいい人間が多く存在します。 しかし、贈与の力を巧みに使いこなす彼らからは、贈り物をすることにより受贈者を債務者の地位に貶め、自身の優位性を確保しようという下心が見えなくもありません。(タダほど高いものはない、とよく言いますね。)
哲学者のイマヌエル・カントは、他人から親切を施されることによって生じる「負債」を異様なまでに嫌悪しました。親切という行為は不平等を通じてのみ現れるものだと彼は言う。他人に親切を施すとき、あるいは他人に金銭を与えたりするとき、与える側にはある種の「優越感」が生まれます。街頭で募金をしたり、友人にご馳走したりする行為は、相手を喜ばす以前に自分でも「気持ちいい」ものでしょう。我々のあらゆる言動には「自己利益」のためという「下心」が働いていることを忘れてはいけません。
 
 
posted by もときち at 11:31 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月06日

社畜化の詐術

仕事ができる若手というのは、会社経営者にとっては喜ばしい存在だ。しかし、これが「独立心旺盛で仕事のできる若手」となると話は別で、彼らのようなタイプは、会社経営者にとっては危険な存在になるかもしれない。サラリーマン(労働者)は自らの労働力を資本家に売っている。だから、会社が嫌になれば自分の労働力を売らないという選択も出来る。しかし、会社に利潤を生みだしてくれる「若手」は貴重な存在であるため、彼らがそのような選択をとらないように、経営者はあらゆる手段を講じる。
 
山田君は新卒学生としてA社に入社して以来、営業部門において高い業績をあげてきた「期待の新人」であった。彼の活躍ぶりは、いわゆる「仕事のできる若手」として社内に知れ渡り、将来的にはA社を牽引していく存在になるだろうと、経営陣から早くも注目を集めていた。
そんなあるとき、会社経営者(取締役)の1人が、山田君に世間話を持ちかけた。それは「結婚」についての話題であった。
 
「君もそろそろ良い年齢だな。どうだ、結婚する相手はもう決まっているのか?」
「いやあ、まだ全然そういう相手が見つからなくて、困っているんですよ。」
「そうか、まあ早く結婚してご両親を安心させるのも、立派な仕事のうちだぞ。」
 
あなたが企業に勤めるサラリーマンであるなら、もしかしたらこのような場面に遭遇した経験を持っておられるかもしれない。
…不思議なのは、山田君の親でもなく親戚でもなく、少なくとも山田君のプライベートにおける道標でもない経営者は、なぜ彼に結婚をすすめてくるのかということだ。「俺が結婚しようがしまいが、アンタ達には関係ねーだろ」と、言いたいところだが、実は山田君の結婚は、経営側にとって大いに意味のある行為なのだ。
 
男にとって「結婚」とは責任が生まれる儀式である。結婚をすると、男は配偶者としての妻を養っていかなくてはいけないし、あるいは子供が生まれれば子供も養っていかなくてはならない。たとえそのような状況から逃げたところで「養育費」は発生するだろう。 つまり、結婚とは「安定した収入を常に得なくてはならない」という強迫観念を男性に植え付けるシステムなのだ。
するとどうだろう。 妻子を持った山田君にとって、今勤めている会社がなくてはならない神の如き存在へと変貌するではないか。山田君は会社を「安定した収入」を与えてくれる信仰の対象として崇拝し、経営者の言いなりと化す。守りの姿勢を決め込んだ彼は、少なくとも仕事を放り出して雲隠れするなどといった行動は起こさなくなるし、独立起業なんてもってのほかである。
 
嘘のような本当の話―。夢と希望に満ちた若者が会社に入社する。そして、彼が徐々に成長していく過程で、あるとき「お、こいつは将来使い物になりそうだな」と、経営者の目にとまる日がやってくる。すると経営者は「この若者を俺の言いなりに」あるいは「反抗しない使いやすい部下」にする装置として「結婚」の話を出してくる。妻子をもった男性社員ほど「扱いやすいもの」はないからだ。
これは、多くの経営者が用いている社畜化の詐術である。
このような手法を用いる経営者は、ある意味で「知恵」が働く有能な人間だろう。そして、社畜と化した若手社員にも希望はある。それは、少なくとも結婚を奨められた男性は「会社から必要とされている」という点である。
もちろん経営者は「我が社の利益」のために結婚をすすめたのであり、彼の労働力の使い道がなくなれば、簡単に切り捨てることも有りうるだろう。結婚はもちろん、実家で両親と生活している若者に「独り暮らし」を奨める経営者にも、似たような欲望が働いていると言ってよい。
独立心旺盛な若手を「我が社の給料なしでは生きていけないような状況」に追い込む詐術を用いる生き物がいる、あなたはそれを忘れてはいけない。
 
 
posted by もときち at 14:34 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月10日

脱・恋愛市場

2008年9月、アメリカの女子大生ナタリー・ディランさんは、自身の「処女」をオークションに出品したことで一躍有名になった。オークションサイトで、ナタリー・ディランの写真付き画像が貼り出されると、世界中の男性から入札オファーが殺到し、2009年には入札額が3億円にまで高騰したという。彼女の言い分はこうだ。「私たちが今いるのは資本主義社会でしょう。自分の処女を商売道具に利用して何が悪いのかしら。」
彼女の主張は最もであり、我々は物事の本質を見逃してはならない。日本という国も、いま資本主義社会の真っ只中にあり、恋愛も性も、すべては商品化されているということを。
 
世界中のあらゆる国で、日本ほど「恋愛のコンテンツ」が発達した国はないと思う。いまや、世界のアダルトビデオ業界で共通語になってしまった「BUKKAKE(ぶっかけ)」ものや「GOKKUN(ごっくん)」もの。さらに日本発エロアニメには「HENTAI」という呼称が与えられ、需要の多さは言うまでもない。カナダのストリップ劇場では、ストリッパーが秋葉原の「メイド服」を着用して登場する始末だ。
しかし、異常に発達した「嗜好」に相反して、日本人ほどシャイな民族も他にいないという。確かに、日本人はここまで恋愛やセックスに関心を寄せるのに、挨拶代わりに身体的接触をする欧米などと違って、友人同士でハグもしなければキスもしない。それどころか、軽く肩にポンと手を触れようものなら、「セクハラだ」と喚かれ、裁判沙汰になりかねない。
これは、自己防衛本能というより、彼女たちが自身の肉体を「神聖な商売道具」と認識しているためかもしれない。肩に触れるのはもちろん、ハグも、キスも、無料で提供するなど言語道断というわけだ。
 
このように、恋愛やセックスに資本を投資する世界を「恋愛市場」と呼ぶ。恋愛市場は「異性にモテるため」のすべての消費活動である。化粧品、ファッションもそうだし、美容・ダイエットや結婚相談所…、数えればきりがないほど、恋愛市場は現代社会において拡がりを見せている。
ところが、最近そのマーケットから「撤退」していく男性層が現れ始めたという。いわゆる「草食系男子」あるいは「秋葉系オタク」などとカテゴライズされた男性である。恋愛市場はそのような傾向(顧客離れ)に危機感を抱いて、「どうすれば草食系男子を振り向かせるか」だとか「セックスしたがらない男性をその気にさせる方法」といった特集をあらゆるメディアで展開していくことになる。男性が恋愛をしなくなってしまったら、女性達がコスメ、ファッション、ブランド品で自らを武装化する理由がなくなってしまうからだ。
 
女性達は自分の肉体を「商品」であると、本能的にわかっている。アメリカの女子大生が言及したように、恋愛とは経済活動であり、自分の若い肉体は消費期限のある商品である。だからこそ、自分自身が恋愛市場における「人気商品」であるために、自らをパッケージングして、積極的に売り出していこうという認識だ。
そんな女性の健気(?)な努力に反して、草食系男子は「俺はもう疲れたから、そんなものに大切なお金を消費したくない」と、市場から撤退した連中である。だからこそ、彼らは女性からの反感を買っているのだ。女性達に「肉食系男子と草食系男子のどちらが好き?」というアンケートをとると、圧倒的に「肉食系」に人気が集まるのは、女性達にとって、肉食系男子は自分を購入してくれる優良顧客だからである。
 
恋愛市場においては、男性は女性を喜ばせるために消費活動を行わなければならない。草食系男子は、そのような消費活動を拒否する。さらに「秋葉系オタク」のように進化すると、「商品化された生身の女性」ではなく「アニメ」や「ゲーム」といった自分自身の趣味のために積極的に消費活動を行う。つまり、秋葉系オタクは、恋愛市場という既存のビジネスモデルを破壊しかねない「イノベーター」であり、恋愛業界にとっては天敵と言える存在なのだ。恋愛業界が、自身の利益にならない男性層を徹底的に糾弾することは、ある意味で道理にかなっている。
だが、ここで明記しておきたいのは、恋愛市場にいる人間が「草食系」や「秋葉系」を見下しているように、恋愛市場から撤退していった彼らも、「君達、いつまでそんな無駄なことに金かけてるの?」と、市場に翻弄される者を見下しているということだ。
「あの秋葉系オタクに、恋愛を謳歌している私たちが見下されている?…そんなバカな。」
まあ、これは極論だけれど、少なくともコンビニに並んでいる女性雑誌、グラビアアイドルの表紙を見て「魅力的だな」と感じる人もいれば、「気持ち悪い」と、生理的嫌悪感を感じてしまう人間もいるのである。
 
 
posted by もときち at 15:01 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月14日

貧困ってなんだ?

主婦向けの雑誌を開くと、日本の大多数の「母」たちが、今どのような状況に置かれているかがわかる。「食費1万円台達人のヒミツ、ぜ〜んぶ見せます!」「物価上昇でも!年収300万円でも!貯めてる人の最強家計術」などなど、節約術の記事が目白押しだ。そして、誌面に登場する彼女たちは皆、笑顔に満ちている。夫の年収を現実のものとして受け止め、明るく前向きに生きていこうとする姿が見て取れる。
しかしその笑みの裏側で、彼女たちが血の滲むような努力をしていることはいうまでもない。また、穀物相場や原油相場の急騰で、食料品をはじめとする生活コストも急上昇しているが、夫の給料は一向に上がらない。この現実を直視したとき、今はなんとか“普通”の生活を送ってはいるが、何か「予期せぬ事態」が起こったとき、いっきに坂道を転げ落ちる… そんな恐怖を肌で感じていることだろう。<貧困大国ニッポン:門倉貴史>

 
もちろんどのような国の、どのような時代にも貧困問題は常につきまとっていた。しかし、現代日本を襲っている貧困問題と過去のそれとでは当然のことながら問題の種類が全く異質である。中世ヨーロッパはもちろん、戦後日本は今よりもはるかに貧しい生活を強いられてきたが、彼らは貧しいもの同士に食料を分かち合い、あるいは食べ物が無くなれば畑を耕し、あるいは野山に食料を採集しにいくことが出来たのだから(いわゆる自給自足で)餓死者が極力出ないようなシステムがそこに存在した。
一方で現代日本においては、都市の住民は現金がなければ死んだも同然である。
いったん失業してしまうと、それこそ「坂道を転げ落ちるように」生活が苦しくなり、社会復帰への道は閉ざされてしまう。さらに一番問題なのは、我々が「貧しく不幸な境遇にある人」に対して、共感する心を持てなくなりつつあるという事態である。
 
貧しいものが貧しいものたる所以は、彼ら自身が怠慢で努力を怠ったせいであり、そのような人たちに我々が納めた税金を再分配することは、彼らを甘やかす行為に他ならないという合理精神こそが、自由競争を勝ち抜くための鉄則である。
搾取される若者たち。俺たちが貧しいのは、仕事もろくにしていない年寄りどもが、能力の無い年寄りどもが不当に「俺たちの取り分」を奪っているからであり、それは社会に徹底した実力主義を取り入れることで(年寄りたちのケツをたたくことで)解消されるだろう。90年代以降、企業にも多く取り入れられた成果主義や実力主義はそのような思想的背景のもとに推進され、多くの若年労働者がそれに拍手を贈った。
しかし、そのシステムには重大な欠陥も含まれていた。実力主義は「すべての貧しい若者」に成功を与えるシステムでは決してなく、それは「能力が高い貧しい若者」だけに限定して成功を与えるというシステムだったのだ。能力が高いにもかかわらず、取り分の少なかった若者は、実力主義の波にうまく乗り、その一部は大きな成功をおさめることが出来たが、一方で「能力が低く貧しい若者」は自由競争の犠牲となり、より一層の貧しさを強いられることになってしまったのだ。
日本人には「お金儲けは汚いことだ」という根強い意識がある。そんなことは間違いで「お金儲けは良いこと」だし、これからは日本人も金融教育を徹底すべきなのだと、多くのエコノミストが主張する。しかし、やはりその思想は「すべての人間」を幸福にするようなものではなく、能力の高い一部の人間のみを幸福し、能力の低い人間は、今より一層の貧しさを強いられるというスパイラルから逃れられない。
 
「人間存在を動かすのは限りない欲望の追求であり、それらを支配しているのは金銭だ。」 このように、損得勘定のみで他人と付き合う、極めて自分本位な人間に対して「世の中にはお金で買えないものがあるのだよ」と説得することは不可能だろう。
いや、むしろ人間は誰しも自分本位なものである。しかし、我々が自分本位だからといって「皆さん、本来人間は自分本位な生き物なのだから、それを隠さず皆さんも自分本位になりましょう」などと訴えることは、あまりにも下品だ。彼らを支配しているのは「お金は誰だって欲しいものだ。むしろそれを隠してこっそり金儲けすることのほうが、よほど卑しい行為ではないか」という、偽善を嫌悪するあまり露悪に走ってしまう幼稚なのだ。
 
(本書の)取材の過程では自動車メーカーの派遣社員の間から、自分たちと同じ境遇で働いていた加藤容疑者(秋葉原通り魔事件)の名前が挙がることが多かった。
「自分は加藤容疑者と同じ派遣社員でした。いきなり解雇になって、あいつの気持ちもわかるような気がしましたね。工場内では、最後に盗みが横行したり、気の弱そうな正社員をカツアゲしたり、ロッカーを蹴りつけたり、かなり荒れてましたよ」(23歳・自動車工場の元派遣社員)
「実際、事件前に、加藤みたいな奴が出てこないかなって、話題に出ることもありました。みんなストレスが溜まっているんです。 …誰でもいいからやったという加藤の気持ちも、わかるような気がします」(26歳・自動車メーカーの元派遣社員)
…しかし、彼らは血の通った生身の人間なのだ。雇用崩壊は、生活だけではなく、人の心をも崩壊させている。<リストラされた100人貧困の証言:門倉貴史>

 
彼ら貧困の証言を読んでいると、貧困は無数の小さな犯罪を超えて、最終的には「戦争」を望むようになるのではないか?という結論に行き着いてしまう。金持ちに暴力を振るうために、あるいは既成秩序を破壊するために最も合理的な手段が「戦争」なのだ。
 
 
posted by もときち at 10:53 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月15日

瞬間の囚人たち

先日テレビで「秋葉原通り魔事件」が取り上げられていた。事件から1年ほど経過したということである。
そのテレビ番組のなかで良識ある人が「このような事件を忘れてはならない、風化させてはならない」と訴えていたが、もうひとつの方法論として、このような事件を抑制するためには、マスメディアがむやみやたらに騒ぎ立てない(風化させる)ことも選択肢の一つである。
 
何年か前に、このような凶悪犯罪は何故起こるのか?といった公開議論がされるなか、ある若者が何気なく「どうして人を殺してはいけないんですか」という言葉を発し、そこに居合わせた大人たちが、その問いに対してうまく返答できなかったことが話題とされた。
 
なぜ人を殺してはいけないのだろう。
哲学者のフリードリヒ・ニーチェなら、あるいはこう答えるかもしれない。「人は殺してもよいものだ」と。もし君が世の中にうんざりしていて、人生においてどうしても生きる喜びを感じることが出来なかったとき、君が人を殺すことによって、人生におけるただ1つの喜びを感じることが出来るというのなら、あるいはニーチェならそれを推奨するだろう。
だが、彼にはひとつだけ言っておかねばならないことがある。君は殺人を犯すことによって、自分が重罰を受ける覚悟が出来ているのか?と。
確かに人を殺すことで、君の「イライラ」はすっきりするだろうし、もしかしたら君は快感を得ることが出来るかもしれない。でも、その快感はほんの一瞬しか続かない。君がその一瞬を終えた後、それから10年…、20年…、あるいは死に至るまで、君の自由は奪い取られ、君は長期的に苦痛を強いられることになるだろう。君は本当にそれを引き受ける覚悟が出来ているのか。
僕達が生きているのはこの瞬間という現在だけではない。僕達は過去にも生き、そして未来にも同時に生きている。「今が幸福なら明日なんていらない」なんて、流行のJ−POPに出てきそうな歌詞だけれど、秋葉原でナイフを振り回した若者も、あるいはオンラインゲームに人生を捧げる子供達も、いまこの瞬間の快感だけを求めて、あまりにも「割に合わない未来」を引き受けてしまっているのだ。
 
60年の生涯の中で、死刑宣告を受け、処刑台に立たされた経験すらあるロシアの作家。彼の名はフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。銃殺刑執行直前に、彼の脳裏に浮かんできた後悔は「白痴」という小説の中で如実に記載されている。
 
もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だって無駄に費やしやしないだろうに!
…男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変って、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持ちになったそうだ。<白痴:ドストエフスキー:木村浩訳>

 
僕達はある程度まで大人になると「いつか自分は死ぬ」ということを考えるようになる。そして迫り来る「死」だけが、すべての人間にとって回避不可能な最終的に行き着く果てなのだ。だから、人はあらゆる方法を用いて「死」から逃れようとする。自分が死んでも、自分の子供が生きていけば、自分は存続していける。自分が死んでも、自分の書き記した著書が残れば、自分は存続していける。あるいは…。
 
2008年6月8日、東京・秋葉原でひとりの若者が、所持していたナイフで通行人を立て続けに殺傷していった。それは稀にみる凶悪犯罪、悲惨な殺人事件としてマスメディアが全国に向けて一斉報道し、視聴者の日常的な時間の流れを断ち切った。
この事件について、メディアは「若者の心の闇」だとか「現代社会の病理」といった特集をし、関係者を含め日本中が「この殺人事件は何を意味しているのか」と自らに問うた。しかし、そのように「ワイドショーの独占」をすることこそ彼の狙いであったし、まったくマスメディアは彼の目論見通りに動かされたのである。そして、テレビ番組が犯罪に過剰な意味づけを行なうことで、彼は人々に記憶され、彼の目的(自己の存続)は達成されたことになる。
残念なことに、このような事件は未然に防ぐことが出来ないし、これからも起こる確率は十分にある。そして新しい事件が起こった際には、僕達は「前例」として秋葉原通り魔事件を思い出すだろう。秋葉原通り魔事件の発生直後に「酒鬼薔薇聖斗」などを思い出したように。
 
「このような事件を忘れてはならない」と、誰かが言った。彼の言う通り、1年の時を経てテレビ番組で特集されるまでは、多くの人があの事件のことを忘れていたはずだ。
しかし、そのように「事件を何度も繰り返し思い出させる」ことが犯罪者の願望であるなら、この病的な社会構造を問いたださない限り、いわゆる「若者の心の闇」などといったものは永久に解明されないままである。
 
 
posted by もときち at 13:03 | THINKING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月19日

病的な精神を育むドストエフスキー

 
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / ドストエフスキー (著); 原 卓也 (翻訳); 新潮社 (刊)初めてドストエフスキーの小説に出会ったのは、たしか僕が17歳の時だ。
ある文芸評論家が「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟こそ、近代文学の最高傑作だ」みたいなことを言っていて、「そこまで言うのだから…」という気持ちで読み始めたのだけれど、第一編の「ある家族の歴史:三男アリョーシャ」まで読んだ時点で、僕はこの作家の虜になってしまった。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは疑いの余地なく、ロシア文学が生み出した天才の1人である。様々な評価もあるけれど、彼の小説の魅力はそこに描かれた個性的な人物像にあると言ってもいいだろう。

 
ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの小説をもって登場人物がそれぞれ独立した思想(声)をもち、それらの主張は互いに溶け合うことなく壮大な多声楽(ポリフォニー)を奏でているようだと論じたが、そのポリフォニックな要素が最も如実に再現されているのは「カラマーゾフの兄弟」で、ドミートリィ、イワン、アリョーシャといった兄弟間の交錯が、神秘的で滑稽な火花を散らすその様は、まるで壮大なクラシック音楽を聴いているかのようだ。「カラマーゾフの兄弟」発表から100年以上を経た今、ようやく現代が彼の小説に追いついた感すらある。
 
「カラマーゾフの兄弟」でなにかと話題になるのは「大審問官」の章だけれど、僕が個人的に好きなのは手前の「反逆」の章だ。「反逆」は二男のイワンが弟のアリョーシャに 「なぜ世の中はこんなにも苦しみが溢れているのか」といった独自の思想を披露する、作中で最も迫力溢れるエピソードでもある。
 
なあ、アリョーシャ。俺は見てみたいんだよ。
やがて鹿がライオンのわきにねそべるようになる日や、斬り殺された人間が起き上がって、自分を殺したやつと抱擁するところを、この目で見てみたいんだよ。どうして世界はこんなことになってしまったのか―。
…全ての人間が苦しまなくてはいけないとしても、子供たちにいったい何の関係があるっていうんだ。罪の連帯性なんて子供にあるものか。もし、子供も父親のあらゆる悪行に対して父親と連帯責任があると言うのなら、そんなものを俺は認めないね。<カラマーゾフの兄弟:ドストエフスキー>

 
ドストエフスキーは「人間」を描いた。
血の固まり、憎悪の固まり。人間は醜く、救いようがない。殺人、泥棒、レイプ、幼児虐待、自分を認めない世間に対して呪詛の言葉を吐き続ける引きこもりの青年。自己の犯罪性を文学作品として表現してしまった作家、それがフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーである。そして「カラマーゾフの兄弟」は20世紀のあらゆる作家、思想家に絶大な影響を与え、今なお読まれ続けている近代文学の最高傑作だ。そして、これは大人向けの文学作品ではなく、若者向けのエンターテインメントだということを強調しておこう。「カラマーゾフの兄弟」は、10代の若者こそ読むべき作品である。
 
 
posted by もときち at 23:22 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月24日

コミュニケーション考

僕はビジネス、とりわけ「業務の効率化」について熱っぽく語る人間が苦手であり、個人的にあまりお近づきにはなりたくはないと思っている。にもかかわらず、ビジネスの世界においては業務の効率化やコスト削減が必要不可欠だし、かく言う僕自身、無駄を省き最大限の結果を導き出すという「業務の効率化」を大いにすすめる、矛盾した仕事観を持つサラリーマンにすぎない。そのような前提で、今回はコミュニケーションという問題について書いてみる。
 
昨今、他者とのコミュニケーションについて議論するとき、必ず引き合いに出されるのが電子メールというツールである。多くの大人は電子メールを批判的にとらえ、若者のコミュニケーション不在を嘆くものであり、若い世代はそれに対して、メールは忙しい相手でも気軽に連絡を取り合える、最高のコミュニケーションツールといった評価を下している。
この文脈でいうと僕個人は「若い世代」に属するものであり、やはり昨今のビジネスにおいては、メールが最も便利な情報伝達ツールだという言説に、ほぼ異論はないのである。
 
 
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「時間は世の中でも最も価値の高い財産だ」という言葉がある。人間はこの世に生をうけた時点で「時間」というかけがえない財産の限度額が決定付けられている。その財産は決して増えることがなく、生まれてから後はただひたすら死に至るまで、その財産を消費していくばかりである。そして、僕たちはあらゆる局面で他人の時間を奪いながら、あるいは他人に時間を奪われながら生きている…、それが人生である。
友人に電話をかければ、話している分だけ、友人に人生という時間を奪われてしまう。会社に就職すれば、会社で働いている分だけ、会社に人生という時間を奪われてしまう。あるいは、本を読めば読んでいる分だけ、本に人生という時間を奪われてしまう。
もちろん、こんなことをいちいち考えながら生きている神経質はあまりいないだろうけれど、時間が有限なものだという意識を常に持ち、他人の時間をやたらと搾取するような、そんな振る舞いだけは抑制していかなければ、失礼に当たるというものだ。
アメリカはそういった「時間に対する意識」が最も顕著に現れている国である。たとえば、日本には「飛込み訪問」という営業スタイルがあるが、アメリカにおいては、アポイントもとらずに相手先に訪問して、他人の時間を一方的に奪ってしまうような行為は、最低のマナー違反として認識されているという。
タイム・イズ・マネー「時は金なり」である。
 
そのような意味で、電子メールは他人の時間を無理矢理奪うことのない、極めて礼儀正しいツールということが出来るだろう。メール以前のコミュニケーション手段というと、電話であり、面会であり、いずれにせよ自分の都合で他人の時間を拘束してしまうものであった。一方で、メールは他人の時間を束縛しないうえ、電話のように自分の伝えたいことが瞬時に相手に届くという、いくつもの長所を兼ね備えている。そんなわけだから、メールを送った直後に「メールを送ったので見てください」と、いちいち電話で伝えてくるような人は、まったくもって「メールを使えてない」のである。そういうものは、メールを送った後に返事が来なければ、経過時間を見計らってから電話確認すればよい。
「電話」もそうだけど「会議」というのも実に厄介な代物である。世の中には、なにかにつけて会議(打ち合わせ)をしたがる「会議大好き人間」というのがいる。関係ないような社員を片っ端から集めて、ブレインストーミング紛いの事を始めるのだが、たいして大きな成果をあげられず、気がつけば2〜3時間はあっという間にロスしてしまう。おまけにさんざん遅刻してきた会議参加者が、いきなり見当違いのことを言い出して、議論が振り出しに戻ってしまうという例も多い。
会議とは結論を導き出す場であって、企画やブレインストーミングをするような場ではない。個人のアイデアを募るというのなら、それこそメールが最適なのであり、事前にメーリングリストを通じて議論を煮詰めておくことで、時間の無駄は最大限省けるのである。
 
このように書いていくと、メールはまさに最強のコミュニケーションツールのように思えてしまう。しかし、メールは便利な一方で、実に御し難い問題も孕んでいるのである。メール・コミュニケーションは、相手の顔が見えないし声も聞こえないから、普段では言えないようなキツい言葉も簡単に言えてしまうという、人間関係をギクシャクさせる面を持っている。インターネット上で「荒らし」や「誹謗中傷」が絶えないのも、相手が自分の目の前にいないという状況があってこそだ。彼らには「何を言っても自分の所在はバレないし、私が被害を受けることはない」という自信があり、このような人間は、面と向かって話をすると案外「いい人」で、あまり会話が得意とは言えないようなタイプが多いのだ。
 
僕自身も口下手で「会話」というのが実に苦手である。苦手…というか、非常に面倒くさく感じてしまうことがしばしばある。実会話によるコミュニケーションは「わたし」と「あなた」の2人が、同じ時間軸のなかで共通の話題を声に出してしゃべることにその意義がある。しかし、世間には少なからず「他人の心理が読めてしまう」人間がいることを忘れてはならない。そのような人は、会話相手と同じ時間軸上にいるように見えて、実はそれよりもずっと先の世界へ、一瞬にして到達してしまうような速度を備えている。
天才的な棋士である羽生善治と、まったくの素人棋士が将棋で対局したとしよう。おそらく、羽生は数手打った時点で終局が見えてしまうに違いない。一方で素人挑戦者は、まだ勝負は始まったばかりで終局など見えるはずもなく、たいそう時間をかけて次からの戦略を練っているのである。このとき羽生に到来する思いは、いったいどのようなものだろうか。「すまないけれど勝負はもうついているんだ。君のやってることはムダなんだよ、もうやめにしよう」といった気持ちなのだろうか。あるいは、北斗の拳だったら「お前はもう死んでいる」と言うかもしれない。
会話によるコミュニケーションもこれと似て、相手が1つの話題について話し始めたとき「この人が最終的に何を言いたいのか」を、一瞬にして把握してしまう人間がいる。相手の気持ちが全て手に取るようにわかるから、彼は言葉を発する気がしない。羽生と素人棋士がそうであったように、2人の時間軸は異常なまでにずれており、だからこそ、彼にとって他人と会話をすることが、とてつもなく不毛な行為に思えてしまうのだ。
 
現代人の多くがこのような面倒を嫌悪するあまり、時間軸に左右されない「メール」を愛好しているのではないかと勘繰ってしまう。しかし、コミュニケーションとは本来「ムダの集積を楽しむ」ものだという解釈も出来るだろう。「相手が最終的に何をいいたいか」分かってしまうからといって、相手との会話を拒否するという思考はあまりにも短絡的である。
自分の言いたいことを最小限の言葉数で相手に伝えることが「コミュニケーション」ではない。人が何か言葉を発する時、そこには必ず何かしらの「余計な情報」が含まれているものであり、むしろそういった「余計な情報」からこそ、その人の個性が生まれてくるのだ。もしも「結論」だけを機械的に発する人間がいるとしたら、その人はおそろしく無個性であり、きっと現実世界では生きていけないだろう。
 
個性はそもそも「ムダの集まり」から形作られるものである。あの映画を見て彼女はこう感じた。あの本を読んで彼女はこう思った。一刻も早く結論を知りたい人にとっては、彼女がどうこう思ったというのは「余計な情報」以外の何ものでもない。
にもかかわらず、そのような「余計な情報」にこそ彼女の個性が脈打ち、彼女を知りたい…、彼女と話したいという欲求が生まれてくる。彼女が「最終的に何をいいたいか」は一瞬にして分かってしまうけれど、しかし「彼女がいったい何者であるか」は、僕達は永遠にわからないからだ。
 
 
posted by もときち at 13:51 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年06月28日

知られざる功績

何年か前に年金記録問題というのがあって、その事件で多くの人が社会保険庁に対して強い不信感を持つようになった。当該事件の一番大きな問題は、年金記録のシステム変更における職員の入力ミスと言われている。
はるか昔(?) 厚生年金は紙媒体の手作業によって加入者の積立てを管理していたのだが、何十年か前にそのデータをオンラインのコンピュータシステムに移し替える際、入力担当者が「入力し忘れた」というもので、それが最近になって発覚したということである。
現在の年金担当者からすれば「なんで俺が当時の担当者の尻拭いをしなきゃいけないんだよ。悪いのは入力ミスしたヤツであり、俺に責任を取れと言うのは筋違いじゃないか」と叫びたくもなるが、しかし、企業が不祥事を起こしたとき「それはうちの社員がやったことで、社長である私は無関係です」といった弁解が効果を持たないように、やはりこれは、社会保険庁全体の責任ということになってしまうのである。
 
企業の不祥事にしろ何にしろ「それは私の責任ではない」という類の言葉がよく聞かれるようになった。
90年代から推進された企業の業務効率化、成果主義やら実力主義という「利益を生み出すことこそ至上目的」としたビジネスの風潮なのかもしれない。
成果主義や実力主義は「格差がやる気を生む」という思想に基づいている。しかし、職場で成果主義を採用すると、社員は「自分の評価を高めなければならない」という強いプレッシャーに支配され、自分の業績アップに寄与しない仕事をその視界から排除し、社内で何か問題が起きたら「自分には関係ない」という無関心の態度を持つようになるのである。
会社の玄関口が汚れている、だからといって私が自主的に掃除をしたところで昇給には繋がらない。同僚が仕事のことで困っている、だからといって私が彼を助けたところで出世には繋がらない。私に利益をもたらさない一切の仕事は、私には関係ないのだから行う必要がない。それが成果主義の鉄則なのだから。
 
今ここに、1人の社員が会社のコンピュータシステムにおける重大な欠陥を発見した。これを放っておいたら、何十年か後になって大問題に発展することは間違いない。
しかし、そのとき彼を不意に襲ったのは「この問題を人知れず俺が処理したところで、いったい誰が俺を評価してくれるというのか、いったい誰が俺に感謝してくれるのか」という気分であった。もしもこの場に社長でも居合わせたなら「これ、俺がやっておきます!」と気持ちよく立候補できるものだが、あいにくこの問題を発見してしまったのは俺1人だけで、他は誰も知らない。俺にとって、この問題は片付けるだけの価値があるのだろうか―?
ここで彼が、未来の会社のためを思って問題を処理すれば、それこそ問題は未然に防がれてしまい、第三者が彼の功績を知る機会は永久に訪れない。仮にこれを経営者に自主申告しようものなら「自分の功績を売り込む器の小ささ」を指摘されかねないし、結局のところ彼は八方塞がりである。もちろんこれは極端な話だけれど、彼の言う誰も評価してくれない仕事とは、成果主義・実力主義といった社内競争型のシステムが、その価値を排除してしまった「知られざる功績」なのだ。
 
自分ひとりの能力で、どのような業務においてもそれなりの結果が出せる人にとっては、成果主義・実力主義というものは歓迎すべきシステムなのかもしれない。しかし、このようなシステムは、会社内部において様々な問題を生み出すことを忘れてはならない。成果主義を採用する職場で、自分がもっとも評価される究極の方法は「社内のライバルに損失を与えること」である。だから、お互いが協力しなくても「自分が結果を出していれば良い」という社員が、最も高い評価を享受するようになってしまうのだ。
また、よく言われる「技術のブラックボックス化」も、こういった社内競争型のシステムが生み出した産物である。技術のブラックボックス化とは、会社にとって重要な情報資産を自分ひとりで抱え込み、いざ彼が退職しようものなら、誰も彼の業務を引き継げないような事態のことを言う。彼は自分の地位を守るために秘密主義を徹底し、それ以下の人材は全く育たないという土壌がそこに生まれるのである。
 
現代人は口を揃えて「忙しい、忙しい」というけれど、それは職場における自分の評価を高めることに忙しいのであって、彼らは「俺は誰にも迷惑をかけないから、お前らも俺に迷惑をかけるなよ。」と、ご丁寧に宣言されているのだ。
 
 
posted by もときち at 00:20 | BUSINESS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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