2009年05月02日

知的虚栄心としての本

我々は知識を身につけると、至るところでそれをひけらかし“自分より下の人間”を見下すことに快感を覚えるようになってしまう。私はこれを理解でき、他人には理解できない。だから他人は私よりも劣っている存在だ。彼らは「知的な私」と「無知な他者」の間に境界線をひき「俺はお前らのような馬鹿とは違うんだぞ」という自己優位性を主張をするようになる。
このような独善に陥らないためには、自分自身を否定する視点が必要不可欠である。あるアメリカの作家は「第一級の知性とは2つの相反する性質を同時に機能させていくことだ」と書いたが、ようするに、自分の愚かさを他人から指摘される前に、自分自身で発見できる知性が健全だということ。
もちろん、「他人の知らないことを知っている」ということが、ある種のステータスになっているのは確かであり、そして、それらのステータスを手軽に構築する方法が「本」である。
 
本は人間の内面を映し出す。本との付き合いは、まるで人と人との付き合いのようであり、当然そこには「好き嫌い」もある。多くの人から支持を集める本、限られた人しか付き合うことのできない本、女性にしか理解できない本もあれば、戦争を経験した世代にしか理解できない本もある。
誰でも一度くらいは「どういう本が好きなの?」といった質問をされた経験があると思う。
そんな時、たとえばあなたが会社の面接で“そこそこ仕事の出来る女性”だというアピールをしたい時は「私は勝間和代を読んでいます」と言えばいいし、まわりの若者とは一味違った嗜好をアピールをしたいのなら「僕の好きな作家はニーチェ、バタイユです」と言えばいい。
逆に「僕の愛読書は三毛猫ホームズです」なんて発言をするのは「僕は読書をしたことがありません」と、自ら宣言するようなものである。まあ、それはそれで相手を油断させることが出来てお得かもしれないけれど…。(それで面接に落ちたら本末転倒ですね)
 
不思議なのは、何百万円もするブランド品を身につけた、外見的虚栄心の旺盛な人に限って、その内面を象徴する本や音楽については、まったくの無防備、すっぴん状態だったりするという現象である。
そのような人達に「あなたの好きな本は何ですか?」と聞くと「ハリポタ」とか「セカチュー」といった答えが返ってきてしまう。恥じるところが少しもないような、まっすぐな眼差しで。
別格であること、自分が一般より高い水準であることに愉悦を感じる彼らが、なぜ本や音楽に関しては「みんなと同じ」であることに満足しているのだろう。
 
もちろんそれは悪いことではないし、それこそ冒頭に掲げたように、難解な哲学書を読むことが人間的に優れているということではない。読書が人と人との付き合いであるなら、結局のところ、それぞれ好きな本を読めばいいという一言につきるだろう。しかし、それでも世の中には、内的虚栄心の無防備な“大衆”を見下している「知識の人」が大勢いるのだ。お茶の間の良心を気取っている評論家も、腹の底では“自分が無知な大衆よりも上の存在”だと思っているのだから。
 
 
posted by もときち at 18:26 | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年05月07日

限定された空間の偏見

僕は昨日「これはAだ」という発言をした。しかし、今日になって僕は「これはBだ」と訂正をした。
…さて、あなたはどちらを僕の発言とすべきだろう?
実は、どちらも僕の発言ではない。なぜなら明日になれば僕は「やはりこれはCだ」と発言して、過去の2つの発言は「否定されたもの」として排除されてしまうからだ。昨日の僕、今日の僕、明日の僕、つまり「僕達」であり、僕が何か発言するときは常に「僕以外の僕」という他者とともに発言している。
そこで「あなたが最後にした発言こそがあなたの発言ですよ」というのなら、上記の例からも分かるとおり、僕の最後の発言は“まだされていない”のであり、このように、時間的に新しいものが古いもの全てを支配するという考えは、弁証法的な物事の捉え方で、その対極に位置するのが「構造主義」の思想である。
 
哲学史という地平に後戻り出来ない断層を刻み込んだ構造主義の思想。構造主義を一般的に広めたとされる人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、歴史を持たない多くの民族集団(未開人)と我々(文明人)を対比させ、人類はみな固有の歴史的状況に投げ込まれていると主張した。
レヴィ=ストロースの仕事は、人間というものを理解するためには、西洋と呼ばれるたった1つの社会だけを考察するのでは不十分という前提からスタートする。そこで、文明社会を捨てて未開の地へおもむいたレヴィ=ストロースが見たものは、文明社会がいかに自己中心的で、野蛮に世界を観察していたかということだった。
 
たとえばある文明社会の学者は、未開社会の原住民を 「発育不全の畸形」 とみなすような認識を持っていた。ようするに、いまだ原始時代のような生活をしている未開人よりも、機械を扱い自由な場所へ移動することが出来る文明人の方が「人間的に優れている」のだ、ということだ。
ここに「歴史」という一本の線が存在する。その線は「過去」から「現在」へとまっすぐに伸びている。我々文明人が立っているのは直線の一番左端、現在という地点だ。それでは未開人が立っているのはどの辺りだろう。線上のかなり右端あたりじゃないだろうか。歴史の年表を紐解けば、たしか原始時代は線上の右端っこの方にあったはずだ。
我々文明人は未開人のような歴史的段階(原始時代)をすでに超えていて、普遍的な進歩の末に、現在のような文明社会を築いたのだ。だから、我々にとって未開社会は「過去の自分」のような存在であり、見下すべき対象だったというのである。
しかし、レヴィ=ストロースはこのような文明社会中心の視点を激しく批判する。
 
未開社会は原始時代ではない。未開社会とは、原始から発展し、ある歴史的段階で国家になることを拒否した共同体なのだ。我々文明人は、新しい発明や歴史的変化が、より良い暮らし、より良い未来につながるとわかれば、それらを歓迎して自らの社会に取り込むだろう。しかし、未開社会は新しい発明や歴史的変化を出来る限り“無化”して、今の状態を際限なく続けていこうという「発展の歴史」を否定した社会構造を持っている。
ともすれば、未開社会の歴史の先には、本当に「我々のような文明の歴史」が待ち構えているのだろうか。文明人と未開人は、本当に「歴史の同一線上」にいるのだろうか。そんな疑問が生まれてくるはずだ。
 
未開社会が、文明社会のかつて辿ったコースを単に追いかけることが出来るというのは誤った歴史観である。未開社会には産業革命も、世界大戦も、テレビも、自動車も、携帯電話も存在しないし、これからも存在しない。
宇宙開発だとか、最先端医療だとか、そんなことに熱心になって時間を費やしている文明人のほうが愚かなのかもしれない。文明人が未開社会を見下しているように、あるいは未開人も文明社会を見下しているかもしれないのだ。未開人は未開人の価値観によって社会を構築してきたのだし、だから彼らには彼らだけの「地球史」があると言えなくもない。
文明社会が発展を善とする一方、未開社会は発展を悪とするなら、人間のあらゆる価値判断は決して普遍性を持ち得ないということではないか。
 
現代の若者は、大人達にとって理解不能だとよく言われる。電車内で化粧をする女子高生、階段やコンビニで座り込む男子学生。若者と大人とでは、風俗・文化だけでなく、常識(マナー)などの分野でも大きなギャップを持つようになった。
しかし、今現在の若者達が行っている理解不能な行動も、20年後の人類から見れば当たり前の習慣になっているかもしれない。今現在の大人達が常識としている規範も、100年後の人類から見れば異常なこととして見下される対象になるかもしれないのだ。我々が「正しい、間違っている」と判断しているあらゆる価値観は、我々の住む国、我々の住む時代といった「限定された空間の偏見」にすぎないのである。
人間は自ら思考して行動した結果、今のような社会をつくったと考えているが、実はそうではなくて、人間は生まれた時点からある社会構造に投げ込まれた囚人であり、一度その社会構造に投げ込まれると、その空間で常識とされる“偏見”があなたに浸透し、もはや曇りない目で世界を見るということは不可能になってしまうのだ。
 
 
posted by もときち at 16:27 | IDEA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年05月11日

世界の覚書

1960年代は、それ以降に生まれてきた我々にとって、ある意味で神格化されている。当時の学生ならば誰しもマルクスを認識しているものであり、近代社会が生み出した知のあり方、資本主義に対しての反抗が、全世界的な学生運動として盛り上がっていたという時代。
もちろんそれは、思想的な大転換を告知したことでも知られている。クロード・レヴィ=ストロースの構造主義があり、ジャック・ラカンの精神分析があり、そして何より日本では80年代初頭のニューアカデミズムブームを用意した、ドゥルーズ、ガタリ、デリダといったポスト構造主義の思想が生まれた時代でもあった。
 
16世紀、それまで離れていた多くの国家・経済圏が結合されて、資本主義という名の世界システムが成立した。近代資本主義は“すべての人間に平等な機会を与える”と言う単純明快なコンセプトに反して、ありとあらゆるところに不均衡と不平等を生んできた。全ての人間は生まれながら不平等に作られているからである。身体的能力、知的能力は明らかに不平等であり、生まれた環境がそれをより一層強めることになるだろう。にもかかわらず、近代世界システムは“誰もが同等の価値を持つ存在”として認められるような社会を目指してきたのだ。
 
資本主義社会は、放っておけば必ず経済的格差へと帰結する。国家は平等性を志向するための装置であり、そのような経済的格差を出来る限り解消するよう、様々な規制を行い、税による再配分を行うのだ。

しかし、90年代からグローバリゼーションという概念が導入されるようになった。各国の境界線がなくなり、それぞれの国家が密接にリンクしながら経済競争をしていく社会。かつての第三世界は、グローバル化により両極に分解してしまった。一方では、中国やインドのように工業化が進み、他方ではアフリカ諸国のように壊滅的状況に陥る。ひとたびグローバル化が始まると、いやおうなしにその流れに飲み込まれ、誰しもその外部にあることは出来ないのだ。
 
 
*    *    *    *

 
 
資本主義社会こそ、歴史の最後の段階である。
ドゥルーズ&ガタリによれば、歴史のほとんどすべてはコード化と超コード化、そして新しい社会的機械として登場した近代資本主義(脱コード化)というものに括ることが出来るという。近代資本主義(脱コード化)以前の歴史は絶対的な他者、たとえば国王などといった巨大な権力が各人の前に「追いつけないもの」としてそびえたち、彼に対して無限の負債を負う(王様のおかげで僕達は生きられる)ことで社会の安定化を図ってきた。
ところが、近代資本主義は社会に自由競争を取り込むことによって「努力さえすれば王様に追いつける」という幻想が各人に生まれるため、各人の欲望は開放されてしまう。
 
この欲望の開放こそ「脱コード化」である。
 
近代資本主義を構成する要素、貨幣や商品、人間の労働力は、欲望を規制(コード化)するためのものではなく、労働力が生産した商品を、明日の労働力を再生産するために自ら購入するという円環の世界に導くもの、互いの欲望を次なる欲望のために交換する装置なのだ。各人は自分より先行する他者を「追いつき、追いこすべきもの」として設定し、無意識のうちに競争の世界へ導かれていく。
この競争世界の諸元ともいえるのが「父親と息子」の関係である。ドゥルーズ&ガタリは、人間を一定方向に走らせる社会的機械として最初の装置が「パパ=ママ=ボク」の家族であると定義する。
確かに「ボク」はまだまだ無力な存在だけど、いつかはパパに追いつけるはずだし、パパを追い越すことだって出来るんだ!(構造と力) そして、目標を追いこしてしまえば、次は自分が目標とされる番なのだ。
このように、脱コード化の近代資本主義は、最終的に各人を一定方向(円環)に走らせることで社会の安定化を図ってきたのだった。
 
 
posted by もときち at 10:30 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年05月16日

金融危機、あるいは初心者のためのサブプライム入門

僕が「金融」について勉強を始めたのは去年の秋頃である。リーマン・ブラザーズが経営破綻し、世界の景気がリアルタイムで悪化するなか、僕はひとりセコセコと「株取引」や「外国為替」について学んでいた。
 
このような投資暗黒時代に株に興味を持った理由は?
 
うーむ、気が付いたら勉強していたというだけなのだ。その頃から僕は会社設立の野望を抱いていて、経営者になるからには“財務諸表を読み解くスキル”が必要になるだろうと考え、会計関連の書籍を何冊も読み漁っていたのである。
 
投資と財務諸表。それら2つの要素は“ファンダメンタル分析”という相場予測の手法において関連付けられている。トレーダーには周知の通り、株(または外国為替証拠金取引)には、買い時と売り時を見極めるのに、テクニカル分析とファンダメンタル分析という2つの方法が用意されている。テクニカル分析とは、純粋にチャートの動きから今後の値動きを予測するもので、その中身は移動平均線やボリジャーバインドなど、さらに細かな分析によって成る。一方のファンダメンタル分析とは、財務諸表など基礎的なデータから、会社が本来持っている実力を見極めて値動きを予測するものであり、有名なウォーレン・バフェットもこの法則にしたがうものである。
 
(…そうです。僕は「財務諸表の読み方」を学んでいて、気が付いたら財務諸表から株価の推移を分析するという分野にまで手を伸ばしてしまったのでした…。)
 
僕が学んだ背景はさておき、当時のリーマン・ショックがトレーダーに与えた影響は計り知れないとされる。しかし、このリーマン・ショックとやらはどういった原因で起こったものだろうか。
サブプライムローンが問題になっていることだけは広く知られているけれど、それでは、サブプライムローンとは何なのか。それが何故「100年に一度」とまで言われる“世界的不況”を巻き起こすに至ったのか。ここはひとつ、季節外れのサブプライム問題:復習編といこうではありませんか。
 
 
*    *    *    *

 
 
サブプライムローンは、低金利で住宅ローンが組めてしまう借金返済能力が低い人(低所得者)のために用意された住宅ローンと言われています。ようするに、クレジットカードを持てないような「信用力の低い人」にも、住宅購入のために救いの手を差し伸べるもので、この夢のようなローンが登場したことで、当時のアメリカは空前の住宅ブームとなりました。
サブプライムローンは後になればなるほど利率(返済金額)が高くなるというローン地獄が待ち受けているのですが、まんがいちローン返済が出来なくても、その頃には住宅ブームで住宅価格も上がっているはずだから、所有している住宅を売り払えば、埋め合わせは十分に可能であると思われていました。つまり、サブプライムローンは「住宅価格が上昇する」という前提があって、はじめて成立するものだったのです。
 
さて、低所得者の返済能力が高かろうが低かろうが「ローンが組まれている」という事実にかわりはないので、そこに「定期的な支払い債務」が発生するということは間違いありません。
問題とされるのは、その支払い債務を証券化(サブプライムローン証券化)しようと企んだ連中がいたことです。
簡単に言うと、A君と金融機関の間で交わした「毎月10万円の家賃支払い」という債務を金券にして、「この金券を持っているだけですごい価値がありますよ」といった具合に、第三者のB君に売りさばく商売を始めた連中がいたわけですね。ただ、こうした住宅ローン担保証券は、投資家(B君)の側からすると非常にリスクの高いものでした。確かに高金利を生んでくれて魅力的な証券に見えるのですが、低所得者A君がローン返済続行不能になれば、B君にも損失がまわってくるのです。
そこで金融機関は、この住宅ローン担保証券に別タイプのローン証券をいくつかチョイスして、ワンパックセットでの販売を開始することにしました。ようするに、サブプライムローン証券は住宅価格と連動して値動きするような“金券”ですので、この住宅価格連動型証券に、住宅価格とはまったく異なる値動きのする商品を組み合わせることで、損失のリスクを見えにくくしたわけです。
さらに、ワンパックセットの中に「毒リンゴ」が混ざっていたら(債務返済が出来ないようなローンが発生したら)、購入者のB君に代わって、保険会社がすべてを補償してくれるというサービスまであり、この保険はCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)と呼ばれています。
保険(CDS)がついているのだから、購入者のB君からしてみればワンパックセットの中に毒リンゴが混ざっていても(A君が借金返済出来なくなっても)関係ありません。B君が注目したのは、A君(低所得者)の支払い能力よりもそれを補償してくれる保険会社の健全性なのでした。かくして、サブプライムローン証券は金利が高い上に保険までついている「魅力的な金融商品」として、世界中の投資家・金融機関にばら撒かれたわけです。
 
ところが、2007年あたりからアメリカの住宅ローン(サブプライムローン証券)はどうもおかしいぞ?という声が出てきました。同年7月には投資銀行のベア・スターンズ(米国第5位)の傘下にあるヘッジファンドが、サブプライム証券が原因で破綻します。続いて8月にはフランスの大手銀行BNPパリバが、ベア・スターンズと同じような状況に陥り、サブプライムローン証券(ワンパックセット)を購入した投資家から解約要求が殺到します。さらに、翌年2008年の3月には、ベア・スターンズ本社が経営破綻の危機に瀕して、JPモルガン・チェースという銀行グループに救済されます。
そして、記憶に新しい9月のリーマン・ブラザーズ(米国第4位)ですが、実はその少し前くらいから「リーマンが危ないらしい」という情報は市場に流れていたのです。にもかかわらず「ベア・スターンズが救済されたんだから、当然リーマンも救済されるだろう」という確信があったため、逃げ遅れた投資家が大勢出てしまったわけです。
 
さて、それらアメリカ国内の金融問題が、なぜ日本の企業にまでダメージを与えているのでしょうか。まず第一に、日本の大手銀行は、ゴールドマン・サックスやリーマン・ブラザーズといったアメリカの金融機関から、とんでもない量の毒リンゴ(サブプライムローン証券)およびCDSを購入したと言われています。それらの銀行が損失を被れば、銀行から融資を受けている中小企業も「貸し渋り、貸し剥がし」などの被害を受け、厳しい経営を強いられることになります。
もちろん、そこには時価会計の問題も絡んできます。財務諸表(貸借対照表)には、投資など会社が所有する有価証券を記入する欄がありますが、従来は取得した時点の原価で記載しておけばよかったものが、時価会計制度が適用されたことで、決算時の市場価格で投資物件を記載することが義務付けられました。
つまり、某証券を100万円で購入したところ、決算時に価値が無くなって0円になっていた場合は、その損失を丸ごと計上しなくてはならなくなったのです。とくに銀行の場合は自己資本比率の規制がありますから、それら不良債権処理の問題はより一層深刻化するでしょう。
第二に、日本の景気は自動車産業(外需依存)が下支えしていたという点。アメリカでは住宅を担保にして自動車ローンを組む人が多いのですが、日本の自動車産業は円安の恩恵を受けてアメリカで自動車販売を増加させていたということが言えます。しかし、今回のように住宅価格が下落すると自動車ローンを払えなくなる消費者も増大して、日本車の輸出は伸び悩み、メーカーは製造にストップ(人員削減)をかけることになります。ようするに、アメリカの過大消費によって日本の輸出産業は本来の実力以上に競争力が高まっていたということで、己の実力を過信した輸出産業(トヨタやソニー)は必要以上に派遣社員を雇ってしまった…、それが現在「派遣切りの問題」として取り扱われているものなのです。
 
リーマン・ブラザーズが破綻した2日後に、世界最大の保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ(通称AIG)が、政府機関から巨額の融資を承認されました。このAIGという保険会社は、CDSによって莫大な利益を上げていたので、公的資金注入(つまり税金による救済)には多くの一般市民が反対するところですね。
しかし、このAIGが破綻するのと、リーマン・ブラザーズが破綻するのとでは、経済に及ぼすダメージが違いすぎます。世界最大の保険会社が経営破綻するということは、サブプライムローン証券を補償してくれる最後の砦が崩壊するということです。しかも、リーマンは基本的に金融機関や大企業といったプロ相手にサブプライムローン証券を売っていたものですが
、AIGの場合は、金融機関向けから一般人向けまで、世界中に幅広い保険サービスを提供している企業なわけです。だからアメリカとしては、これからも断固としてAIGを救済していくしかありません。もしもAIGが破綻したら、日本の金融機関が購入したサブプライムローン証券とCDSは全損失としてバランスシートに計上されるので、多くの大手銀行が経営危機に陥るでしょう。そして、その銀行にお金を預けているのは、我々一般人だということを忘れてはいけません。
 
 
posted by もときち at 20:26 | ECONOMY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年05月21日

テレビとインターネット

インターネットはコンピュータ同士をつなげるものであり、それらは国籍を問わず、国境の概念がない。さらにテレビなど従来のメディアが一方通行であったのに対し、インターネットは双方向(インタラクティブ)である。これにより広告主の意識が変わり、大手テレビ局各社の広告収益は激減。テレビというビジネスモデルはいよいよ終焉を迎えた、これからはインターネットの時代だと、一部の識者たちは口を揃えて言う。
そんなわけで、テレビの終焉を告げるとき「テレビ対インターネット」という構図がしばしば持ち出されるのだけれど、そもそもこの2つのメディアって、ホントに比較できるものなのか?
広告の費用対効果として、ブログの「アクセス数」とテレビ番組の「視聴率」を比較してみせるのもおかしな話だし、ネット広告費がテレビ広告費を上回ったというそれだけで、テレビよりもインターネットの方がメディアとして優れているなんて言説は成り立たないような気がする。
 
テレビとインターネットは全く異質なメディアだ。前者には所有者がいるけれど、後者には所有者がいない。
インターネットは、自宅にパソコンさえあれば誰もが参加できる「参加自由型メディア」だけれど、テレビはメディアの所有者(テレビ局やCM制作会社)が容認した者にしか参加を許さない「入場制限型メディア」である。
テレビ局は放送枠という「スペース」を所有することができる。なぜスペースを所有することが出来るかというと、スペースが「24時間=有限」だからである。これにより、テレビ局は「スペース」に相応しい個人・法人を彼らの意思で “選択” して出演させる政治権力を持つ。
一方で、インターネットにはスペースという概念がない。いや、スペースが「無限」に存在するのだ。だから、誰もそれを所有することが出来ないし、本来なら参加してはいけないような無法者にも、入場制限をかけることができない。
 
インターネットは、個人の自己顕示欲を一番手っ取り早く実現してくれるメディアである。才能の有無に関わらず、誰もが勝手に「名前を売る」ことが許されている。新しい服を買ったことをブログで報告し、ちょっと気に食わないヤツがいれば中傷し、いかに自分が有能で価値のある人間かということを周囲に認知させることが出来る。
テレビやラジオ、出版業界といった入場制限型メディアは、そのような無法状態を許さない。ある意味でそれらは「法」によって管理された世界である。そして、僕たち消費者もその「法」を無意識のうちに信奉している。テレビなどの入場制限型メディアへ参加する個人・法人は、「法の番人」から認められ、放送枠という有限のスペースを取得した存在なのだ。
 
ネットアイドルは、どんなに売れても「ネットアイドル」のままだ。
しかし、ひとたび彼女が 「いま、売れに売れてるネットアイドル!」 なんていう特集でテレビに登場すると、僕達は彼女がなにか神の護符を賜った“特別な人間”であるかのように錯覚してしまう。
 
 
posted by もときち at 13:54 | INTERNET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 

2009年05月29日

写真撮影

今後なにかと必要になるかなと思って写真撮影してきたけれど、今のところ何の必要性もない顔写真。
 

岩渕元紀

 
………………。
会社のホームページでも作ろうかしら。
 
 
posted by もときち at 17:22 | ZIEND | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする 
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